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粕谷昌良の社会科授業日記

筑波大学附属小学校の粕谷昌良が社会科実践を報告します。

58.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」その⑬  ~未来につながる新平の志~

後藤は自分の立てた復興計画を実現できないまま、政界を去りました。

しかし、現在の東京には、昭和通りや大正通り、隅田川の復興橋脚、復興小学校など

後藤新平による復興といわれるものが多く残り、教材でも取り上げられています。

実際には新平が内務大臣として復興に当たったのはわずか120日ですから、新平が立てた復興計画が実施されたものもありますし、その後の人々が行ったものもあるのです。

特に、国の予算が削減された後、東京市が肩代わりした復興として、幹線道路の建設があります。

それを、資料として子供たちに提示します。

東京市長 永田秀次郎の演説大正十三年三月二七日「市民諸君に告ぐ」

市民諸君
我々東京市民は今やいよいよ区画整理の実行にとりかからなければならぬ時となりました。

第一に我々が考えなければならぬことは、この事業は実に我々市民自身がなさなければならぬ事業であります。決して他人の仕事でもなく、また政府に打ち任せて知らぬふりをしているべき仕事ではない。それ故にこの事業ばかりは我々はこれを他人の仕事として、苦情をいったり批評をしたりしてはいられませぬ。

我々は何としても昨年九月の大震火災によって受けた苦痛を忘れることは出来ない。父母兄弟妻子を喪い、家屋財産を焼き尽し、川を渡らむとすれば橋は焼け落ち、道を歩まむとすれば道幅が狭くて身動きもならぬ混雑で、実にあらゆる困難に出遇ったのである。我々はいかなる努力をしても、再びかような苦しい目には遭いたくはない。また我々の子孫をしていかにしても、我々と同じような苦しみを受けさせたくはない。これがためには我々は少なくともこの際において道路橋梁を拡築し、防火地帯を作り、街路区画を整理せなければならぬ。
もし万一にも我々が今日目前の些細な面倒を厭って、町並や道路をこのままに打ち棄てて置くならば、我々十万の同胞はまったく犬死したこととなります。我々は何としてもこの際、禍を転じて福となし、再びこの災厄を受けない工夫をせなければならぬ、これが今回生き残った我々市民の当然の責任であります。後世子孫に対する我々の当然の義務であります。
街路その他の公設物を整理するには、買収による方法と区画整理による方法とがあります。しかしながら今回のごとく主として焼跡を処理する場合は、区画整理による方法が最も公平であり、またもっとも苦痛の少ない比較的我慢しやすい方法であります。区画整理によりまして、道路敷地となった面積は皆その所有地に按分して平等に負担し、これが全面積の一割までならば無償で提供し、一割以上であればその超過部分に対して相当の補償を受ける、そして誰一人として自分の所有地を取られてしまう人がなく、皆換地処分によって譲り合って自分の土地が残る。苦痛も平等に受け利益も平等に受ける。かような都合の好い方法ではあるが、ほとんど全部の者が皆動くのであるから、この場合において初めて実行の出来る方法であります。この機会をはずしては到底行われない相談である。それ故いかにしても是非ともこの際に断行せなければならぬのである。

顧みますると、我々は震災後既に半箇年を経過しました。土地の値段も震災直後は二分の一か三分の一に下落したと思われたものが、今日では震災前と同一になりました。こうなって来ると段々に震災当時の苦痛を忘れて来て、一日送りに安逸を望み、土地の買収価格が安いとか、バラックの移転料が少ないとか、区画整理も面倒臭いとかいう気分の出て来るのも人情の弱点で、無理もありませぬ。しかし、我々はこの際、かような因循姑息なことを考えてよろしいでしょうか。実に今日における我々東京市民の敵は我々の心中の賊である。我々はまずこの心中の賊に打ち勝たねばならぬ。

世界各国が我々のために表したる甚大なる厚誼に対しても、我々は断じてこの際喉元過ぐれば熱さを忘れる者であるという謗りを受けたくはない。

区画整理の実行は今や既定の事実であります。ただ我々はどこまでもこれを国家の命令としてやりたくはない。法律の制裁があるから止むを得ないとしてやりたくはない。まったく我々市民の自覚により我々市民の諒解によってこれを実行したい。

我々東京市民は今や全世界の檜舞台に立って復興の劇を演じておるのである。我々の一挙一動は実に我が日本国民の名誉を代表するものである。

子供たちは、

・やっぱり貫いたものは、市民第一やちゃんとした後継者を育てることだと思った。永田秀次郎さんが区画整理をやってくれて、新平も安心したと思いました。最後の言葉にも出た「岡山・・・」は次の公演場所だったので、やっぱり未来は、政友会ではなく新平の案にも賛成できるような、日本を支える政治家を作り上げようとしたのだと思いました。
・死ぬ前に岡山といっていたので、市民への後援を大切にしていたのだと思います。後藤さんは市民のことを第一の考えていたのだと思います。 ボーイスカウトの初代総長になったり、ラジオを作ったりと市民を鍛えたり、役に立つものを作ったり、未来の人に役に立つことをしていると思います。
・橋の憩いを憩いの場所にするなんてなかなか思いつかないと思う。そんなことが思いつくなんて、やっぱり後藤は市民のことを大切に思っていたからだと思う。後藤さんがなくなった後も、後藤の思いをついで、がんばった人たちは本当にすごいと思う。後藤が最後まで市民のために頑張ったのも、永田さんたちがいたからだと思う。
後藤新平が本当に貫いたものは、市民の気持ち・心・思いだと思う。後藤の復興計画は、お金などの問題でやらなかったが、後藤がなぜ復興計画を考えられたのかは、市民の気持ち・心・おもいが分かっていたからだと思う。永田秀次郎が再び災いを受けない工夫。これは市民が考えることといっていた。もし、後藤の復興計画がされていれば、被害が少なかったはずだ。市民の気持ち・心・おもいが分かっていないと復興計画はできないと思う。
後藤新平が貫いたもの。それは東京(日本)は昔も今も未来も市民のものという思いだと思う。復興計画を作り、すぐ実行しようとしたのは未来を見つめてこと。自分の計画をあきらめて引退したのも速く復興に取り掛かることができるようにするためだった。政治は国や東京がどこへ向かうかを決める。政治家の仕事なのだけれど、その政治家を支えてるのは市民。政治家を選んでいるのは市民だ。今、後藤新平に会えたら、あなたの考えたように東京は市民のもの。私は市民だからこそ、東京について知り、考え向かう方向を考えます。と伝えたいと思う。そう考えることが新平の貫いたことを受け継ぐことになると思える。
・新平が最後まで貫いたもの、それは「市民が主役」という考え方。国を支えているのは市民一人一人なので、市民がよい市民であれば、国もそれだけ良い国になると思う。では、市民はどうすれば「良い市民」になるのか。まず一つは、不安のない生活がおくれること。だから新平は大震災で苦しみや不安を抱える市民の気持ちをあんじ、修正案を受け入れた。次に「良い市民」はすべてを国に任せるのではなく、自分たちの未来について、自分たちで考える力を持っていると思う。そのためには、市民自身が「自分たちが国や政治の主役だ」と思えることが大切。だから、新平は最後まで市民の声に耳を傾けたのだと思う。これら2つの理由で、新平が貫いたのは「市民ファースト」の精神だと僕は考える。
・私は市民が貫いたものは、市民の安全を第一に考えることだと思う。前にもらったプリントに「少ない予算でも早く成果を上げ、不安に駆られた市民の心を案じることが修正案を受け入れた理由である」と書いてあることから、そう思う。市民のため、国民のため。それは日本を西洋に追いつく良い国にしたいという信念だ。後藤新平の一生を調べると、政界に入る前は医師として日本で一番古い海水浴場を開いた。今ではリハビリにプールが使われているが当時は初めてだった。また、拓殖大学の学長時代には、「後藤先生は学生に対して慈愛に満ちた態度で接せられた」といわれている。えらい学長でもいつも心を学生に寄せていたんだと思った。
 政界後も、ボーイスカウトやラジオ放送に力を入れた。ボーイスカウトは、調べると「自信、他助、誠実、機知を持った青年を育む」とある。ラジオも市民へ情報がいち早く届くためだと思った。新平が一生を通じて貫いたものは、「人によりそい、助ける気持ち」だと思う。一人一人がよくなれば日本もよくなるからこそ、ボーイスカウトを作り、人を育てようとしたのだと思う。西洋のことを学んだのも日本をよくするためだと思う。
・ぼくは、後藤新平は決して政友会には負けていないと思う。政友会の案を受け入れたのは、一日も早く復興させてあげたかったからで、それをよいと思ったわけではない。そして、永田秀次郎などの新平の後継者も作り、その人たちは新平の跡を継いで東京を復興したから、決して負けていないと思う。

と意見を書きました。

後藤新平が貫いたものを考える本実践は、こうして終えることができました。

現在東京復興の象徴、良きリーダー、として語られることの多くなった後藤新平ですが、その一生を追っていくと彼が貫いた本当のものは、道路や橋など実際に復興された形に残るものより、人々の心に残した自治の精神であったことが分かります。 (繰り替えしになりますが、彼が内務大臣だった時間では実行できなかったのですから。)

自治の精神を子供たちなりに、実感的につかむことができたと思います。

そして、その気持ちは「公民としての資質・能力」の一部になると感じることができました。(おしまい)

57.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」その⑫  ~後藤新平が曲げてでも貫いたのも 後編 ~

前回(56回)、後藤が政友会の修正案を受け入れて、政界を去ったところまでを書きました。今回はその続きです。

 

さて、子供たちは、落胆の声を挙げます。

○自分の復興計画を最後まで貫いてほしかった。

○負けないでやり遂げてほしかった。

しかし、一方では、

○これ以上抵抗したら、復興までの時間がかかる。

○寒さで凍死した市民もいたようだから、速さを優先したんだよ。

など、市民を優先したという意見も出てきます。

 

では、当事者の新平はどのように考えていたのか?

長文の資料を提示し、ゆっくり読んでいきます。

 

「三百万市民に告ぐ」         1924年
後藤新平 

 私は火炎に包まれる帝都の惨状、苦しむ市民を見て、その任務がいかに重大であるかを自覚した。それと同時に、善後の大計を策定することが急務であると痛感した。すなわち政府が、第一に救護、第二に復旧、第三に復興の方針を打ち出すことに異論はないだろう。
 しかし、復興に当たっては、財政上の問題があるとして、一致をみることがなかった。当時の私はひそかに思った。帝都の被災は空前絶後である。これを復旧で満足するようであれば、単に現在の要求に適していないばかりか、後世の子孫に再び同一の災害に遭遇させる危険がないとは言えなくなる。都市の改善事業は最近の世界共通の問題であって、すでに科学的な研究もなされ、経費と努力を用いて、困難と闘いながら世界で広く行っている。今、これを行わなければ、いつこれを行う機会があるのだろうか。復旧は一見財予算が少なくてよいように見えて、将来においては実は少なくない浪費と化すだろう。これは市民のための計画として、忠実ではないばかりか、市民の志を揺さぶるものでもない。
 しかし、予算修正に対し、政府の面目を強調して、政友会と政治的に戦うことは、災害の復興計画を今かと待ちわびている三百万市民のためにとるべき手段でない。少ない予算でも速く成果を上げ、不安に駆られた市民の心を安んじることが、修正案を受け入れた理由である。
 ひるがえって、わが敬愛する市民のために最後に一言する。山本内閣は退き、私は民間に隠居している。しかし、帝都の復興は新しい内閣の手によって今後着々と進むにちがいない。
しかし、その実績の良し悪しは、市民諸君の双肩にかかっていることを忘れてはならない。とくに、自治能力を発揮することが大切である。新しい東京は市民諸君が作るものである。市民諸君は当然協力一致して、それによって、国家の運命と子孫のために、その自治能力を傾けていかなくてはならない。
 私は城西の田舎ぐらしをしているが、今も貢献したいと思っている。幸い、市民諸君の素晴らしい働きにより、帝都復興が日々進展していると聞いている。なんと喜ばしいことか。最後の予算修正で、私に国会を解散して戦うよう言ってきた人士は少なくない。もし、それをしていたら果たしてどうだったであろうか。市民諸君の活躍は生まれていたか。この後の計画は、諸君の自治の能力に依頼してやまないものである。

これを読むと、子供たちは

○やはり、市民のことを一番に考えていたんだ。

○自分のことよりも、市民を優先したのか。

そして、肝心のところに気づいていきます。

○「自治の能力」とある。自分が去っても、市民の力に期待したんじゃないか。

○自分が去っても大丈夫だと、市民への信頼があったんじゃないか。

○前に、歌ができたけど、それくらい新平と市民はつながりがあったんじゃないか?

子供は、新平が生涯を通して本当に貫いたことであろう「自治の能力」に気づいていきます。

まだ、気づきの段階です。そこで、スライドを見せます。

スライドには、政界引退後の新平が

ボーイスカウトの初代会長になり、普及に尽力した。

②ラジオを作った。日本のラジオ放送の第一声は新平の声。

③全国各地を講演して回った。自治の能力、市民のための政治という内容。

④最後に残した一言は「岡山・・・」次の講演先の地名だった。

そして、新平が亡くなった後の震災復興祭の賑わいの写真と新平の姿がなかったことを紹介し、スライドを閉じました。

 

そこで、「新平が本当に貫いたものは何だったのだろう?」と問いかけ、本時を終了しました。子供たちは、ノートに向かい(意見を書くため)授業を閉じました。次回は最終回です。その後の復興について学び、新平が残した「自治の力」を考えていきます。

 

児童の意見

・わたしは後藤新平がまさか政友会に従うとは思わなかった。しかも、これからもまだチャンスがあるかもしれないのに政界復帰しなかったのかも驚いた。新平が貫いたものは、たぶん市民の手助けだったのではないか。だから、メッセージ?で「市民諸君にかかっている」といっていたのではないか。
・僕は市民第一を貫いたんだと思う。医師をやったり、政治を頑張ったりした。政界を退いた後も、ボーイスカウトを応援した。ボーイスカウトは子供の教育にいいと知ったからやったのだろう。ラジオの東京放送局も、市民のくらうぃそ楽にするために作った。だから、新平は、市民のところ第一に考えていたのだと思う。
・私が、新平が貫いたものは市民生活をもっと便利にしたいということだと思う。最後までラジオを作ったり、ボーイスカウトの代表になったりしたのが理由だ。
・それは市民を思う心と復興をあきらめなかったことだと思う。市民を思う心は、政友会との戦わなかったのは、こんな戦いをしているより、少ないお金でもいいから早く復興させようとしていたからだ。そして、復興することをあきらめないのは、政治を引退しても市民のための政治を遊説していたことだ。これは、復興を全国に広めようと思ったからだと思う。
・新平が最後まで貫いてきたものは、市民の気持ち。そして、市民のための復興だと思う。新平のメッセージの中に「政府の面目を強調するのではなく、少ない予算では約成果を上げること。不安に思っている市民の心を安んじること」が決断の理由だとある。新平は政治家としての自己満足や理想論より、今苦しんでいたり、不安を抱えていたりする市民300万人の気持ちに寄り添うことを選んだんだと思う。
・やっぱり新平は自分勝手ではないと思いました。しっかりした復興を考えたから予算が多いのですが、政友会ともめたときも、時間の無駄になり、市民のためにはならないと判断したからです。政界に復帰しなかったのは、国を動かそうとしても簡単ではなく、今の東京では一人一人の努力ができると思ったのだと思います。新平が最後まで貫いたものは、私は、信念を曲げずに市民を守りたいという気持ちだったと思います。だからその後も、人を育てるという分野で活躍したんだと思います。
・新平が最後の決断の時に、政友会との話し合いが長引いて復興が始まらないのを恐れ、市民が一日でも早く復興に全員で迎えるように引退を選んだ。東京は政治家のものではなく、昔も今も未来も、市民のものと思ったと思う。市民が作ってほしいと考えたのもあると思う。

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56.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」その⑪  ~後藤新平が曲げてでも貫いたもの~

12月19日 予算決定の場面で、復興委員会が開けれるたびに予算削減されてきた新平の復興計画案は、最終場面においても政友会の反発にあい、さらに1億600万円、復興院の事務費カットを求められます。政敵である新平を政界から追放しようという狙いがあります。この削減案を新平が受け入れるべきかどうか?

このぎりぎりの場面を考えていきます。

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f:id:syakaikajugyou:20170302082959j:plain板書のように、子供たちの多くは、拒否して国会解散、総選挙をするべきという意見です。それは大きく分けて2つの意見に分けられます。

○市民のために、よりよい復興をすべき。市民のため。公人として。

○今までの自分のしてきたことを最後までやる。プライド。自分のため。私人として。

これまでの学習で、市民の立場から考えることに加えて、新平自身の立場になって考えた意見も多くなっています。個人の立場になって考えることも判断の場面では重要で、より実際に即した判断といえると思います。新平の身になっていることがよくわかります。

 意見を出し合った後、実際の新平はどうしたのか。資料を配ります。

裏にして配布し、全員で見る資料です。衝撃の内容がすぐにつかめるように、分量を少なくします。これは、授業の最後に配布するじっくり読む資料(次回に掲載)と差別化を図っています。

私は①驚きをみんなで共有したい場合は文字の少ない資料 ②じっくり考えていきたい場面は文字が多い資料 と作り分けています。①の場合は文字資料ですが映像資料のように、一見して読み取れる分量にする工夫をしています。

その資料は以下のようです。

1923年12月19日深夜。
後藤新平は山本首相を訪れて話し合った。翌朝の閣議において、政友会修正案を受け入れると決定した。
山本首相は摂政宮殿下(のちの昭和天皇)に拝謁し、政局に関して言上して退出した。その後、政府は国民に声明を出し、修正案を受け入れたことを世間に知らしめた。

 内閣は、12月29日総辞職した。

この後、後藤が政界に復帰することは
二度となかった。

これを読むと(見ると)子供たちは衝撃を受けます。

・なんか、つらい。後藤は市民のことを考えていたのに、政治のことしか考えていない政友会に負けて、去ってしまうなんて。

・最後まで復興計画を貫いてほしかった。がっかりした。

などの意見が出てきます。子供たちはは思い思いに自分の感想を述べていきます。

しんみりとしています。

後藤新平は彼の信念である復興計画をどうして貫かなかったのでしょうか?

新平の考えの本質に迫っていきます

それは次回に・・・・。

55.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」その⑩   運命の12月19日

 

ずいぶん長い間お休みをしていて申し訳ございませんでした。

後藤新平が曲げてでも貫いたもの」も佳境に入ります。

前回(51)で、政友会など後藤の「復興」とは考え方が違い、「復旧」にとどめることを主張し、後藤の予算案を削っていきました。そこで、どうして後藤新平がどうして100年後を見据えたのかを勉強しました。後藤の年表や当時の市民に流行した歌から、後藤の考えに迫っていきました。

そして、今回はいよいよ、復興計画が修正に修正を重ね、予算案が決定する12月19日の場面です。これまでに30億円超の計画を5億まで減らされています。

しかも、この土壇場の12月19日の予算委員会で、政友会が求めてきたものは

①さらに、1億600万円の削減

②復興委員の事務費を全額削除

というものでした。

これは、後藤新平の復興委員をつぶす計画で、

政敵である後藤を政界から追放しようという意図がみられます。

これを、子供たちに資料で配ります。

裏にして配くばり、一斉に表を開けさせて読ませます

すると、「えー。」「ひどい!」の声が教室に響きます。

 

配布資料

政友会の修正案 1923年12月19日
新平が心血を注いだ復興計画は、3度の復興審議会と帝国議会の開催で、4億4800万円まで削減されていた。
 そして、運命の衆議院予算委員会が12月19日に開かれた。そこで、後藤達を待ち受けていたのは、政友会の大修正だった。さらに1億600万円の削減を求めてきたのだ。4億4800万円まで減らされた予算から、さらに1億600万円の削減。この削減は政府にとって、致命傷になりかねない。
それに加えてか、政友会は後藤の復興院の事務費の全額削除を求めてきたのだった。
政敵である後藤を政界から追放するつもりらしい。

 

子供たちに感想を言わせると

・政友会は復興しようとかではなくて、後藤と政治の争いをしている。

・市民のことがおいていかれている気がする。

・話の中心がずれている。

・後藤に同情する。

という意見でした。政治とは何か・・・。子供たちはそんなことを考えていました。

さて、この政友会の案を飲むのかどうか。

子供たちは「反対すべき!」の意見が多いようです。

教室は盛り上がっています。

そこで、2枚目の資料を配り、今度は私がじっくり読みます。

資料は、後藤が復興のために呼び寄せた、米国のまちづくりの権威

ビアード博士の書簡です。

 

資料

しかし、後藤ら山本内閣には、総辞職・総選挙という抵抗の道が残されていた。新平の周りには部下が集まり、戦うべきと声を上げたという。その熱気はすさまじいものだった。
部下以外にも、後藤に戦うように意見を述べた人物がいる。アメリカのビアード博士である。


「親愛なる友よ。
 世界の目は日本の上にある。
 死せる10万の男女小児の声々は叫ぶ。
 その価値、50億の財宝は焦土となって横たわっている。
 世界の目はみな、後藤の上にある。
 死者の声も響き渡る。
 それはどうしてか。
 この危機に臨んで、後藤に復興を期待したからである。
 もし、災害の再発を阻止する計画を死守しなければ、期待に背いたというべきである。
 それは、日本の失敗である。失敗すれば、10年ないし50年後の危機に、さらに広範囲の大災害を誘発することになるだろう。
 今、あなたに向かって呼びかけるのは、日本である。現在と将来の日本である。
 かつてロンドンで大火があった。すべての歴史家は1666年にロンドンを復興したサー・クリストファー・レンの名前を知っているが、その計画を妨害した偏狭小心の国会議員をだれが覚えていようか。
 将来の災害に対して人命財産を防衛するに足らない小計画を立てるは愚挙である。

 しかし、本当の政治家を選ぶ市民の数が足りない。政治的な名誉を求めるものもいる。
それを乗り越えて、数日のうちにあなたは決断して、数百万の民衆の運命を決めるべきだ。

 私は、このように考える。さらばわが親愛なる友よ。今日を目標として建設することなかれ。ねがわくば、永遠を目標にして 東京を建設されよ。」

 誠実かつ忠実なる
チャールズ・A・ビアード

 彼がいかに心を込めて書いたかは、その文字の気迫をもって知ることができる。後藤の要請で日本に来て以来、深く日本を愛した彼は、この千載一遇の時に当たり、その心の友後藤新平が復興に当たりながら、好機を逃して、災いを100年後に残そうとするのをみて、耐えられなかったのだ。

この手紙を見た中小路は、「外国人ですらそういうんだからなあ!」そう言って泣いた。
中村是公は、ぼろぼろ、ぼろぼろととめどなく涙を流した。そして、後藤に戦うべきだと怒鳴るのだった。

 

子供たちは、ビアードや側近などの心情を察し、「戦うべき」という声を挙げました。

具体的な場面を取り上げて、後藤の貫いたものを考える展開。

具体ゆえに、身近に感じて誰もが考えていました。

次回、後藤はどうすべきなのか考える予告をして授業を閉じました。

 

子どもの感想

・僕だったら戦う。なぜなら、勝てるチャンスがあるからだ。無理だっからあきらめるけどまだ大丈夫だ。後藤は都民から信頼されているし、都民は自分たちの安全を願っている。だから、チャンスはあるのだから、それを捨てはしないと思う。また、自分のプライドもある。負けてもいいからやるべきだ。
・私なら戦う。このまま政友会の言いなりになりたくないし、新平の復興計画を執行しなければ、またたくさんの犠牲が出てしまう。ビアード博士の期待にも、部下の期待にも応えなければならないと思う。それに戦わないと後悔すると思う。
・台湾と満州のまちづくりをしてきた経験をいかしたいし、医者として衛生面の大切さも知っているから、自分のやっていることが正しいことだと分かっている。日本はまた同じような地震が起きるから、未来のことを考えたまちづくりを絶対にした方がよい。
・僕が新平なら解散して戦います。なぜなら金額の話とは別に、復興を強く願う東京市民の気持ちに新平がまず答えるべきだと思います。今は、新平は市民から信頼を得られているが、ここで戦わなければ、心が一気に離れてしまうと思う。市民の声を味方につけることが大切だと思う。

 

 

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54.社会参画を見据えた授業 唐木清志先生と社会貢献学習シンポジウム

新しい学習指導要領の社会科の目標は

「社会的な見方・考え方を働かせ、課題を追究したり解決したりする活動を通して、グローバル化する国際社会に主体的に生きる平和的で民主的な国家及び社会の形成に必要なこうみんとしての資質・能力の基礎を次のように育成することを目指す。」

として、そのあと、

①生きて働く「知識・技能」

②未知の状況にも対応できる「思考力・判断力・表現力」

③学びを人生や社会に生かそうとする「学びに向かう力・人間性

が社会科の資質・能力として記されています。

社会科だけでなく、各教科にわたって「何を知っているか」から「何ができるようになるか」という視点での指導の改善が求められていることは明らかです。

社会科の場合でも、

指導の取り扱いに

「選択・判断」「立場を明確にして」「自分たちができることを」

と何か所も記されています。

私は「問い」が1つでは成り立たなくなるのではと感じています

「どのように」と社会事象の仕組みを捉えたあと、

「どうすべきか」「どうあるべきか」を問うていく必要があるのだと思います。

それを考えることで、複数の立場に立って考えることや、

複数の立場が分かったうえで、自分はどうしようかと考えることができるのではないでしょうか。

前に書かせていただいた、ストーリーとアナザーストーリーのようなことが必要だと思います。

また、教材そのものも、公共的なものを取り入れていく必要があると思います。

これまでの仕事に加えて、税金の仕組みやボランティアなどの社会貢献も教材として求められるのだと思います。

その様に漠然と考えていましたら、

日ごろから大変お世話になっている、筑波大学の唐木先生が3月18日土曜日に「活動合って学びあり!の社会貢献学習へ」というシンポジウムを行われるそうです。

私も参加しようと思います。関心のある先生は参加されてらいかがでしょうか?

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53. 2冊の本を発売されました。

今月、私が関わらせていただいた本が2冊発売になりました。

1冊目は『「資質・能力」を育成する社会科授業モデル』です。

この本は、ベーシック研究会(理事長 白石範孝先生)のシリーズとして各教科から発売されます。その中の社会科の本の担当をさせていただきました。

新しい指導要領では、3つの「資質・能力」を育成することが示されています。そのために、主体的・対話的で深い学びの実現が求められているのですが、これだけではイメージが難しいので、より授業に近い例を挙げてお示しすることにしました。

社会科では、問題解決的な学習を展開するために必要な、「9つの力」をソーシャル9として示しています。

そしてソーシャル9を働かせたり、育成したりする授業モデルを詳しく紹介しています。執筆された先生の渾身の実践を読むことができます。

f:id:syakaikajugyou:20170216115028j:plain2冊目は、『子どもの追究力を高める 教材&発問モデル』です。

こちらの本は、私が事務局長を務める「小学校社会科授業づくり研究会」で作成したものです。授業づくりのキーとなる、教材と発問の一般的な事例をBeforeとし、改善した事例をAfterとして示したものです。

改善の視点は①これまでの経験をくつがえす ②数量に対する驚き ③怒りなどの心情に訴える ④多様な見方・考え方ができる ⑤価値の対立を引き起こす です。

2pでひとまとまりなので、実践の詳しいところまではわかりませんが、この本の魅力はなんといっても60事例が収められている点です。注目に値すると思います。実際の教材開発や発問の工夫の参考になると思います。

 

どちらも、この数か月、こだわって書いてきたものです。お読みいただけたらありがたいです。

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52.公開授業への参観、ありがとうございました。

2月9日10日に行われた、筑波大学附属小学校学習公開・初等教育研修会にご参加いただきありがとうございました。

また、1部4年粕谷学級の授業を参観していただいてありがとうございました。

多くの先生方に参観していただき、子供たちも喜んでいました。

 

9日は「後藤新平が本当に貫いたもの」

10日は「どうして戸田雅子さんは、檜原雅子になったのか」でした。

どちらも、「まちづくり」や「市民」に焦点を当てた授業で、

私が関心のある分野です。

 

さて、参観後にある先生からご質問をいただきました。

「どちらも、数時間の授業を経ての授業で、1回きりの授業ではありませんでしたが、どのように進めてきたのですか?」

というご質問です。鋭いご質問です。

じつは、この1か月後藤新平の授業を第1社会」「檜原村の学習を第2社会」として行ってきました。まるで、中学の歴史と地理のようにです。

 

理由は、どちらの授業も掘り下げていくと、「地域づくり」や「市民」に行き着くと考えたからです。両方の授業が互いに影響を及ぼしあって、「地域づくり」や「市民」についたの考えを深めることができるのではないかと・・・。

時期学習指導要領では、高等学校に「公共」が新設されます。

この公共では、現代の諸課題を考察して、他者と協働しつつ、国家・社会の形成に参画し、持続可能な社会づくりに向けて必要な力を育むとされています。

おそらく、高等学校での政治参加を目標にしているのでしょうが、それを受けて小学校では何ができるのか?

「街づくり」「市民」をテーマにして考える場面を設け、2つの単元を閉じたいと思います。

おそらく、成果もあり、課題もあると思います。

何らかの機会に発表できればと思います。

 

とにかく、参観ありがとうございました。

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