粕谷昌良の社会科授業日記

筑波大学附属小学校の粕谷昌良が社会科実践を報告します。

121.「畠山さんと森は海の恋人」そして「あの震災」 その⑦  2011年もはためいた大漁旗

前回は、畠山さんが

2011年の23回目の「森は海の恋人」植樹祭は

「とても開けない」

と決断したところまでお話ししました。

しかし、2011年6月5日。ひこばえの森には大量がはためいたのでした。

そして、いつも以上の熱気がそこにはありました。

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重篤さんや信さんはすごく痩せていますね。このときの厳しさを感じさせられます。

しかし、参加されている皆さんの笑顔は、ひときわだなと感じさせられます。

 

さて、重篤さんは開催を断念したにもかかわらず、どうして開かれたのでしょうか?

 

2016年6月5日 
岩手県一関市ひこばえの森
畠山重篤さんインタビュー


○第23回植樹祭を開くことができたのはどうしてですか?
 震災後、道路が復旧すると、支援物資を持ってきてくれる人が次々に現れました。元の美しい舞根を知っている人は言葉を失いました。きっと誰一人養殖場の復活を想像できなかったに違いありません。海を見ていても、魚もカニもフナ虫も、そしてそれらを餌にする鳥も全くいなくなりました。千年に一度の大津波で海に生きる力がなくなってしまったのではないか?そう考えるようになりました。
がれき片づけをしたり、津波の始末をしたりしていた5月、京都大学の田中先生から連絡がりました。
「千年に一度の大津波後の海がどう変遷するのか調査チームを作りました。すぐ行きます」
田中先生は到着すると、海水を調べはしめました。海水を顕微鏡で見て
「畠山さん、大丈夫です。カキのえさになる植物プランクトンが食いきれないくらいいます」
とてもうれしかったですよ。そして
「今回の津波で沿岸部分には被害がありましたが、海の背景にある森は壊れていません。森の養分は海に安定して供給されています。もし、森が壊れていた海の復活も困難でした。『森は海の恋人』は真理ですよ」
 この言葉で勇気づけられました。希望も生まれました。

 しかし、壊滅的な被害を受けて、植樹祭を呼び掛ける雰囲気は全くありませんでした。気仙沼だけで1000人の死者、1000人の行方不明者が出ました。舞根の20件のうち、残ったのは6件だけです。森に掲げてきた海の象徴である大漁旗もありません。 そんなとき、ずっと一緒に活動してきた室根山の人々がやってきて
「今年はすべて私たちが準備をします。畠山さんたちはからだ一つで来てください。」
というんです。それにボランティアの方がたくさん協力してくださるといいます。本当にできるのだろうか。
とにかく、植林祭に行くことにしました。

すると、例年に比べてはるかに狭い植林地でしたが、そこには例年に負けないくらいの多くの人が集まってくれました。人々の思いを感じました。
私はスピーチで言葉がつまりながら
「今年はできないと思っていましたが、皆さんが体一つで来てくださいと言ってくれました。
 しかし今年は、例年植林の後にみんなで食べる舞根のカキを持ってくることができませんでした。
 来年、必ず持ってくることを約束します」
そう述べたのです。

森は海の恋人は、森と海・・・だけでなないのだと思いました

 

室根山の方々が、畠山さんのところに来て開催が実現したのです。

「森は海の恋人」は森と海だけでなく、人もつなげていたのでした。

 

(続く)

 

 

 

 

 

120.「畠山さんと森は海の恋人」そして「あの震災」 その⑥ 2011年6月。26回目の植樹祭は?

震災から3か月後の2011年6月に23回目の植樹祭が開かれる予定でした。

しかし、東日本大震災のために開催は難しい状況でした。

 

畠山さんの養殖場も大きな被害がありました。

・養殖施設がすべて流された。
・出荷目前の牡蠣100万個が流された。
・船もすべて流された。
大漁旗もすべて流された。

そして、
 いつも支えてくれたお母さんが亡くなった。

 

畠山さんは大いに悩みます。

畠山さんの言葉から、

 

大震災が起こった2011年の6月。
毎年第一日曜日に行われる
「森は海の恋人」植樹祭は
23回目を迎えるはずでした。

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しかし、震災によって私たちの住む気仙沼だけで

死者が1000人
行方不明者も1000人
を数えました。

舞根地区は20件ありましたが、6件しか残っていません。

家を失って、舞根を去る人も少なくありませんでした。

私の母を含め
3名の犠牲者を出しました。

 

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おばあさんたちは、
2回目の戦争のようだと
涙を流しました。

植樹祭で掲げる、
海の象徴である
大漁旗
も流されてしまい
手元にありません。

 

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壊滅的な被害を受けた
舞根の人々に

「植樹祭を開こう」と

とても言えませんでした。

私は、残念ながら
「植樹祭」を
開かない
ことにしました。

 

支えてくれた母を失ったことや、壊滅的な打撃を受けた舞根の人々の心情を考えて、

長年続けてきた植樹祭を開かないことにしようと考えたのでした。

 

授業でも、この場面を扱いましたが、(後日詳細に)

子供たちは

「開いてほしかった。赤潮も克服したのだから・・・」と畠山さんへの期待を願う多数と、

「生活を支える養殖がだめになったのだから、そちらを先にしなければいけなかったんじゃないか」と考える児童もいました。

いずれにしても、畠山さんの心情を思うと苦しい決断です。

 

しかし、

2011年6月5日(日)

舞根湾に注ぐ大川の上流、ひこばえの森に、

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いつもより、ずっと少ないけれども、

大漁旗が掲げられていたのでした。

続く

 

 

 

 

119.「畠山さんと森は海の恋人」そして「あの震災」 その⑤ 2011年6月。26回目の植樹祭は?

「森は海の恋人」植樹祭は、毎年6月の第1日曜日に開かれています。

私も、この2年間は参加させていただいています。

宮城県岩手県の県境にある室根山のひこばえの森に、1500人もの人が集まり、賑わいを見せています。

事前の申し込みが不要で、誰でも気軽に参加できます。

参加すると、板に「森は海の恋人」植樹祭と焼き印された記念品までいただけるのがうれしい。

 

 

私は、前日の土曜日に新幹線で一ノ蔵に行って一泊し、日曜の朝に在来線で気仙沼方面に向かい、矢越駅で下車します。

一ノ蔵には、おいしい魚などを提供してくれる居酒屋もあるし、名物のソースカツ丼を出してくれる駅前の食事処もあっていい感じ。ソースカツ丼、毎回食べてます。お店のおばちゃんたちも気さくですごくいいです。)

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気仙沼に向かう電車は、のどかな田園風景が広がり、気分いい。私の他にも東京から参加される方が何名か乗り合わせます。

矢越駅には迎えのマイクロもあるけど、歩いていくのもいいです。

ひこばえの森交流センターに到着

 

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会場はにぎやかな雰囲気。

開会行事で重篤さんがスピーチするのですが、おもしろくて笑ってしまう。

場が和みます。

そのあと、植樹祭で植樹する苗の提供などがあり、支援の幅広さを知ります。

開会行事が終わると、みんなで植樹場所まで20分くらい歩いていきます。

道々、数十年にわたって植えてきた森を通っていきます。

たどり着くと、そこには大漁旗が掲げられたおなじみの風景が!

感慨に浸ります。

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 苗と鍬を受け取り、目印の場所に植樹します。

穴を掘って植えて、土をかぶせて出来上がり。

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記念に名前も書いたけど、すぐに消えるだろうな。

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重篤さんや、信さん、信さんのところで学んだ学生に皆さんと一緒に過ごします。

重篤さんは、テレビや新聞などの取材に囲まれいますが、

どんどん話しかけて、ポールポジションで植樹祭を楽しみます。

(平成28・29の写真が混在しています)

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木を植えて、ひこばえの森交流センターに帰ってくると、

たいへんうれしふるまいが!

 

水山養殖場(畠山さんの養殖場の名前)の牡蠣がふるまわれます。

森で食べる牡蠣は格別。

めったに、食べること、手に入れることができない水山養殖場産の牡蠣が、ここだと無料で一つ食べられ、希望すれば配送もしてくれます。うれしい!

私も家に送りました。

 

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一つ一つその場でむいてくれます。

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食べて一言「うーん。舞根の海の味だね。うまい」と(笑)

 

ここまでで11:00くらいかな。その後もいろいろなプログラムがあるけど、

東京に帰るので、ここでさようなら。無理なくいって帰ってこられます。

 

この様な、すてきな一日が、毎年6月の第一日曜に開かれています。

よろしかったら、来年参加しませんか?(PR)

 

しまった!

本当は震災後の植樹祭をめぐる話を書こうと思ったのに、

ついつい毎年開かれている「植樹祭レポート」になってしまった!

 

2011年6月の第一日曜日。

震災後の植樹祭は、当然のことながら、開催困難な状況に追い込まれてしまいました。

いったい、どうなったのかは、次回にしたいと思います。

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

118.「畠山さんと森は海の恋人」そして「あの震災」 その④ 東日本大震災

「森は海の恋人」植樹祭が軌道に乗り、赤潮も解消されていきました。

畠山さんの生産する牡蠣は味がよいと評判になり、舞根にも活気が戻って来たそうです。

このころ、筑波大学附属小学校の田中力先生が畠山さんの取り組みに注目したそうです。

3年前私が畠山さんにお会いすると、「筑波大学附属小学校かぁ。懐かしいな。私はあなたの学校へ牡蠣をもっていったことがあるよ」とお話ししてくださいました。

私はそのことを知らなかったのでびっくりしました。お話を伺うと、田中力先生が総合的な学習の時間の公開研究会で畠山さんをゲストティーチャーとして迎えられて授業をなさったということでした。

畠山さんの著書にも記されていますが、このことがきっかけとなり、教科書で取り上げられて、全国から教員が視察に訪れるようになっということでした。

 

そのことを全く知らなかったので、驚くとともに、こうやって筑波の教員が再び舞根

を訪れるのも何かの縁だなと思いました。田中力先生が、森と海の関係性に注目なさって、新しい漁業の視点を示したように、

私は、森と海と人というつながりに注目して「森は海の恋人」の価値を見つめなおしたいと思っています。

 

さて、少し前置きが長くなりました。

 

順調に養殖を営んでいた2011年3月11日。

東日本大震災が起きます。

三陸沖が壊滅的な被害を受けましたが、舞根も例外ではありません。

畠山重篤さんは、そのとき、自宅にいらっしゃったそうです。

畠山さんの自宅は、海面から20mほどの高台に位置しています。

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右の中腹に屋根が見えますか?そこです。

大きな揺れの後、重篤さんはすぐに「津波が来る」と思ったそうです。

高台の自宅から海を見ていると、だんだんと海水が引いていく。チリ地震津波の時もそうだったそうです。

しかし、今回の海水の引き具合はチリ地震津波の時よりももっと沖まで引いている。「これは大きな津波が来るぞ」

その時、三男の信さんは「船を沖に持って行った方がいいんじゃないか?」と提案したそうです。すると長男の哲さんが「じゃあ、お前言ってくれるか?」と返したので、信さんは「行くしかないな」と腹を決めて沖に出ていったそうです。

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その時の写真が上です。

このときはまさか1000年に一度の津波が来るとは思っていなかったそうです。

沖に向けて出港したその時、

舞根湾に壁のような津波が迫ってきました。

信さんは、「これではだめだ」と思い、思い切って、船を捨てて海に飛び込んだそうです。もちろん津波に飲まれていきます。

津波の海に飛び込むなんて・・・。考えただけでも恐ろしいし、想像もつかないことをです。

 

 

そのころ重篤さんは、想像を超える津波の高さに「高台の自宅も飲み込まれるかもしれない」と山の上へと家族とともに登っていったそうです。

決断すると、ものすごい音を立てて津波が迫ってきた。

眼下では、養殖施設がすべて飲み込まれていったそうです。

10人の家族は全員無事だったそうです。

 

波が引いても余震は続いている。山を降りていくと幸い、自宅にはかろうじて津波が届いていなかったそうです。次第に、「畠山さんのうちは高台にあるから」と舞根の人たちが避難してきたそうです。しばらくの間、地域の人と避難生活をしていたそうです。

 

そのころ、海の飛び込んだ信さんは、何とか大島まで泳ぎ切り、命を取り留めたそうです。大島では火災が発生していて島民に交じって消火活動をしていたそうです。

そして、2日後に自衛隊が到着し、ヘリに乗せてもらい、舞根に戻ったそうです。

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その時の写真

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なんとか舞根に帰った信さん

家族は喜びわきますが、

悲しい知らせが待っていました。

それは重篤さんの母、信さんの祖母の、小雪さんがなくなったということでした。

信さんは泣き崩れたそうです。

 

東日本大震災によって、畠山さんは、お母さんを失ってしまいました。また、船もすべて失い、養殖施設も、牡蠣100万個、(被害総額2億円)、そして、植樹祭で掲げる大漁旗も失ってしまいました。

 

何もかも失ってしまいった重篤さん。

3月28日(月)の朝日新聞のコメントには、「今は何も考えられない」と書かれています。

 

赤潮に続き、再び困な状況に立たされた重篤さんですが、

再び立ち上がるのでした。

(つづく)

 

 

 

117.どうでもいい話 「飲まない理由はない」に励まされて。

私が千葉県の長期研修生として1年間千葉大学で勉強していた時、

先輩の先生にすごくお酒の強い方がいらっしゃいました。(一人ではない)

毎日飲むというので「毎日ですか?すごいですね」と問うと

「飲まない理由がないですから」と答えてくださいました。

私は、思わず吹き出しましたが、同時に「素晴らしい発想だ」と感心しました。

それから、ことあるごとに「○○しない理由はない」と考えるようになりました。

 

一か月余り前に、趣味の自転車練習中に交通事故で左親指の付け根を骨折したことはこのブログでも紹介させていただきました。

この夏に開かれる「第33回 マウンテンサイクリング 乗鞍」で1時間20分を切り、チャンピオンクラスの出場権を獲得するべくほぼ毎日練習を重ねてきましたが、7月末の骨折と手術でその望みがほぼ絶たれたといってよいでしょう。

 

しかし、骨折が「練習しない理由」になるのでしょうか。

「酒を飲まない理由はない」という発想に立てば「練習しない理由はない」のです。

ですから、手術後すぐは汗による感染症の恐れがあったので、4日後から練習を再開していました。しかし、左手は使えませんので、室内ローラーで左手に汗が回らないようにあげて、変な格好で1日2回練習していました。お酒も一滴も飲まない。練習できない分、体重は落とそう。64kℊ。高校生の時でも65kg。この179cmのなってからの最軽量。そんな夏休みを過ごしていました。

 

そして、迎えた大会4日前。

病院に行くとトライアスリートの先生(これも前に紹介済み)から

「くっついていないね。くっつくのは6週間くらいです。今は手術は4週間前でしたからまだまだですね。出るというのなら、埋め込まれたステンレスはそのままで。可動範囲は少なくなるし、振動も相当痛いはず。」というコメント。

 

3秒くらい悩んで悩んで、悩みぬいて

「出ます」という。

 

「わかりました。くれぐれも落車、転倒だけは避けてください。再手術の可能性が高くなります。ヒルクライムだか速度が出ないのは幸いかな。下山はくれぐれも気を付けて。しっかり固定しましょう」

 

全く、自分でもどうかしてると思うけど、それが自分だから仕方がない。

もう、1か月以上も、実走していないからどうなるか。もちろん試走もしていないから、ペース配分も作戦もたてられない。

不利な点しかないけど、そんな状況でもやらなきゃいけないときって山ほどある。

とにかく「闘魂」だけは最後まで燃やそうと心に決めて乗鞍へ。

 

スタート前。社会科キャラバン号から自転車を出して立てて、少し乗ってみる。

恐る恐る左手を添えてみる。そして走り出す。ちょっとしたアスファルトの継ぎ目。

振動が左手に響く。痛い。「駄目だ。左手は全く使えない」段差では、ハンドルから離さないと骨折に厳しい。もうシッティングだけで行くしかない。

 

自転車は、一度スタートしたらゴールまでとにかく漕いでいきます。基本的に同じ筋肉を使っていくので疲労がたまっていきます。拷問のようです(笑)

その疲労を軽減するように、体制をシッティング(座る)とダンシング(立ちこぎ)で使い分けていきます。

(そのほか、座るところを少し変えたりもありますが。ダンシングは急坂を体重をかけるという良さもありますが)

 

左手が使えない私は、シッティングオンリー、段差は片手となります。覚悟を決めてスタート位置につきました。

 

天候は快晴。乗鞍の頂上がきれいに見えるほど。それだけでもありがたい。とにかく、前半飛ばしすぎないようにと心がけていきます。

 

ローラーは欠かさなかってので、息が上がることはなく、それなりのペースを保って前レースは進んで行きます。

しかし、乗鞍は後半が神髄なのです。傾斜がきつくなります。

そこで、シッティングだけの私は、次第に疲労がたまっていきます。それを感じながらも、決定的なダメージを負わないように注意していきます。

ローラー練習おかげで、ペースは悪くないのではないか。サイクル帽子から滴る汗を見ながら、集中していく。そして、残り5kmにたどり着く。

 

そこは、位ヶ原といって、森林限界を超えた世界です。

ゴールもはるか遠く、つづら折りの向こうに見える。

 

しかし、実走不足、ダンシングできないことから、ついに右ふくらはぎがやばいと悲鳴を上げ始める。左手が使えないからどうしても、右半身頼みのペダリングになってしまう。右肩の疲労も半端ではない。もはや力は残されていないのです。

徐々にペースが落ちてきてしまう。でも、あがきたくてもあがけない。どうにもならない「もどかしい」

くそ―と一声だす。「こんなもの!社会科の授業づくりの生みの苦しみに比べたら、何でもない!!」と心に念じる。闘魂だけは失わない。

ボロボロになりながらも、最後のスパートを見せて何とかゴール。

 

すぐにサイコンのタイムを見る

 

「1時間21分」

1分たりない。正式タイムは1時間20分52秒9

53秒足りませんでした。

悔しさがこみあげてくる。上位26.7パーセント

これまでのレースと変わらない順位ではあるが・・・・・。

出し切れていない。充実感がない。この感覚は何だ・・・。

 

結果を出すべき時に結果を出せないというのは、相当まずいことだと思います。

今回は絶対に結果を出すべき時だし、結果を出せるように数か月準備はしてきたのに自分の不注意で出せないというまずさ。

こういうことでは、どんなことをやっても成功できないな。

これではいけない。

 

乗鞍の頂上に53秒の忘れ物をしてきたなあ。

来年は、もう1時間20なんてことは言わない。1時間10だな。

 

骨折したって、なんだってクリアできるだけの実力を身に付けて臨んでやる!

おしまい

 

ボロボロの左手

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116.この夏3回連続! 畠山さんの授業

8月26日(土)は、梅澤先生を中心に開かれている「価値判断力・意思決定力を育成する社会科授業研究会」で授業をさせていただきました。

この夏、3回連続の「畠山さんの授業」でした。

前回は8月1日でしたので、1か月近くも間が空いてしまうので、子供たちの意欲や認識が心配でしたので、1回きりの単発授業をしようかとも考えていましたが、

ありがたいことに「3回目もお願いします」「3回連続を見に行きます」と

何人かの先生に声をかけていただいたので、思い切ってやることにしました。

3回連続で参観してくださった先生方ありがとうございました。

 

授業は単元の終末に差し掛かっています。

今回は、震災後に三陸海岸で作られている防潮堤についての学習です。

防潮堤は、国土交通大臣農林水産大臣が進め、県知事が具体的な計画を立案します。宮城県の村井知事は建設を推進する方針を打ち出していますので、人の住む沿岸部分は建設が進められています。

しかし、舞根は早くから地域を挙げて反対を決め、防潮堤に頼らないまちづくりを決断しました。

その場面を子供たちと考えました。

子供たちはとてもよく考えてきていました。

意見は

・水の循環が悪くなる。

・森の栄養が届かなくなる。

・牡蠣に栄養が届かなくなる。

・できるだけ、自然の状態で養殖したい。

・これまでの植林の成果がなくなっていまう。

など、これまで学習した「森は海の恋人」の活動を踏まえたしっかりとした予想ができていました。

さらに、

・調べると防潮堤は9mくらいらしい。それだと海が見えなくて逆に危険だという声もある。

・防潮堤があっても、必ず命が防げるわけではない。

と、自分で調べてきたことを基にする意見も。

 

有田先生の本を読むと「授業と授業に間を大切にするクラス」という話が出てきます。気になったことを調べ、それを授業で交流して深めていく。そんなことができていたと思います。素晴らしいと思いました。

 

さらに、

・1度きりの津波は逃げるとして、漁師としての日常を大切にしたのだと思う。

・舞根の海の味を守ろうとしたのだ。

・海を信じているといっていたね・・・。

 

といふうに深まっていきました。

子供たちの予想の後、

畠山重篤さんの息子さんで、現在実際的に「森は海の恋人」を進めている畠山信さんのインタビュー記事を読みました。

 

○どうして、舞根地区は防潮堤を作らないことにしたのですか?
 防潮堤は、海岸法という法律に基づいて計画・建設されていきます。詳しく言うと、国の国土交通大臣農林水産大臣の定める方針に従い県知事が具体的な計画を立てます。2011年の東日本大震災は18000人以上の死者の出る大災害でした。国と県は人々の命を守るために防潮堤の建設を進めることにしましたので、海岸線で人の住むほぼすべての地区で防潮堤の建設が進められていきました。
 しかし、舞根地区の住民は「防潮堤は不要だと思うのだけれど、どうやってそのことを伝えたらいいのか?」という意見が多くを占めました。「森は海の恋人」の私のところにも相談がたくさん来ました。舞根地区の責任者や住民はほとんどが「森は海の恋人」の活動に29年前から参加している方々です。9.9メートル(校舎の屋上までの高さくらい)の堤防を作ってしまったら、私たちの生活を支えるカキ養殖や美しい景観が失われてしまう。長年行ってきた植樹活動の成果である豊かな舞根の海が台無しになってしまうと考えました。命を守るはずの堤防が私たちの生活を奪ってしまうと考えたのです。もし、津波が来た場合には、今回のように人が逃げればいいと考え、自治会の畠山孝則さんを中心に全員の意見がまとまりました。その意見を伝えていきました。自分たちの町は自分たちで作るという意識が強かったと思います。
○舞根以外の地域で防潮堤への反対はなかったのですか?
実は他の地域からも、防潮堤は不要だと思うという相談を受けました。具体的には14の地区の住民が相談に来ました。しかし、意見をまとめることが難しく、防潮堤は建設される方向に進んでいるのが現状です。

 

子供たちの予想は当たっていたといってよいと思います。

 

資料で気になったところに線を引きながら読んでいくと、子供たちが一番気になったところは

「実は他の地域からも、防潮堤は不要だと思うという相談を受けました。具体的には14の地区の住民が相談に来ました。しかし、意見をまとめることが難しく、防潮堤は建設される方向に進んでいるのが現状です。」

という箇所です。

どうして、建設は進んでしまうのか。

新たな問いが生まれます。

 

子供は

・国としては、人の命が大切と考えるからだろう。

・堤防があった方が安心感があると思うじゃないか。

・舞根の人たちほど、海への思いが強くないということじゃないかな。

・舞根の場合は、漁師だけじゃなくて、森の方の人も海を大切にするという風に、多くの人がまとまれたんじゃないか。

 

という予想です。そこで、畠山信さんのインタビューの続きを示します。

 

○舞根以外は防潮堤が作られてしまうんですか。
国や県も「人の命を守る」ということで防潮堤を進めています。田老や釜石のように防潮堤があれば必ず命が守れるというわけではありませんが、防潮堤が必要だという人の意見も大切だと思います。
私たちは、海から恵みをもらって生活しています。ですから良い面も悪い面もあると思うのですが、防潮堤を作ることが大切か?作らないことが大切か?一人一人がよく考えることが大切です。大切なものや考えがなければ、どうしても、国や県の方針で・・・と任せてしまう地域が多くなってしまいます。一度作ったら壊すことはできませんし、意見がなくて決まったものでも、その地域で決めたことなのです。責任は自分たちにあるのです。
しかし、防潮堤建設における住民の意向がまとまりそうな集落もあります。現在のところ気仙沼市大谷海岸(本吉地区)になります。「森は海の恋人」も、学術的な自然環境調査、専門家の紹介と派遣、交渉の仕方などを陰ながら支援しています。
また、気仙沼では被災沿岸部において唯一、防潮堤建設問題について住民主体の「防潮堤を勉強する会」が組織されました。防潮堤建設が表面化し始めると、自然に気仙沼市有志が集い「防潮堤を勉強する会」が立ち上がりました。「防潮堤を勉強する会」は反対運動をする組織ではありません。どうして反対運動をしないかというと、それには「森は海の恋人」を始めたきっかけをみんなが知っているからです。
今から30年以上前、父の畠山重篤がダム建設の中止を実現したことがあります。当時(平成元年ごろ)、気仙沼湾に流れ込む大川の中流にダム建設の話が持ち上がりました。ただでさえ赤潮で苦しんでいたカキの養殖は、ダムができれば確実にだめになっていたでしょう。それでも重篤はダム建設反対を叫ばずに、大川の上流に木を植え始めました。この活動は多くの人々の共感を呼んで広がっていきました。すると人々は海と森のつながりを意識するようになりました。人々の気持ちも変わってきたのですね。人の気持ちが変わってくれば、ダム建設に疑問をもつ住民が立ち上がり、大きな力になってダム建設は中止されました。反対運動ではなく、人の気持ちや考えが大切なのです。かつて「ダム建設」が中止になったのは住民の力です。今回の防潮堤を見直すのも住民の力であるべきだと思います。
 「森は海の恋人」の活動は来年の6月で30周年を迎えます。毎年1500人以上の方が集めってくださいます。30年の間に、第1回目の植樹祭に参加された方のお子さんが参加し、最近はお孫さん世代も参加しています。世代を超えて「森は海の恋人」は広がってきています。
 また、長年「森は海の恋人」では子供たちに舞根に来てもらい体験教室や子供キャンプをしてきました。体験した子供あっちは1万人をこえています。そういうことの積み重ねが、自分たちの生活を自分たちで考えるような人を増やしていったのだと思います。
「森は海の恋人」が貢献できたことと言えば、森・海の繋がりの重要性を感覚的に人々に植え付けたことくらいです。その感覚を身に付けた人と人を結んだのだと思います。

「人づくり」とは、「人の心に木を植えること」と重篤は申しております。

あと20年早く「森は海の恋人」が誕生していれば、三陸沿岸部の防潮堤建設問題は大きく変わっていたであろうと、多くの住民の方々から指摘されております。

 先生、今度は子供たちを連れて舞根に来てください。歓迎します。

 

子供たちが線を引いたところは

「意見がなくて決まったものでも、その地域で決めたことなのです。責任は自分たちにあるのです。」

「「人づくり」とは、「人の心に木を植えること」と重篤は申しております。」

というところでした。

とくに、重篤さんの「人の心に木を植える」は全員が引いていました。

 

次回は、いよいよ最終回。「人の心に木を植える」について考えていきます。

「森は海の恋人」の活動とは?目指すものとは?

感動のフィナーレかな?

 

今回の授業で、私が一番気を付けたことは「防潮堤の是非」を問う授業ではないということでした。子供たちは是非については折々触れながらも、畠山さんと「森は海の恋人」の活動について考えていくという、単元の問いは外していませんでした。

そして、防潮堤問題を通して、社会において大切なのは、「一人一人が考えを持つ」「責任をもつ」ということを学んでいたと思います。

 

また、授業においても、単元開始時や「転」の部分ではなく、「結」でしたので、

私の出番を極力引いて、子供たちの学びを発露させることを心がけて授業を行いました。ほとんどの時間を子供たちが意見を述べて進めていきました。

とてもいいなあという意見が多く、思わず「舞根の人みたいだね」と子供たちに私が言う場面がありました。単元を通して、畠山さんのことを学んできたので、十分理解し、舞根の人たちの気持ちの一端も理解してできたのだと思います。

それができるようになってきて、1部5年も成長したなあと感じました。

 

今回は、子供たちがよく頑張りました。いつもより少ない人数でしたが、

輝きは少しも劣っていませんでした。

おしまい

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115.「畠山さんと森は海の恋人」そして「あの震災」 その③ 森から流れてくる鉄分

ずいぶん間が空いてしまいました。

ちょっと体調が崩れてしまい、静養していたので・・・。

すみませんでした。

 

さて、幼少期からの体験とフランスで見たことをもとにして

森に木を植えることにした畠山さん。(この辺りの着眼点の素晴らしさは114に詳しく)

植樹祭も多くの方を巻き込んで、盛大に行うことができました。

しかし、

大川のダム建設を止めるには、科学的な根拠も必要でした。

そんな時、NHKで「海の荒廃の原因は海以外にある。しかも森の荒廃だ」

と言っているという。北海道大学の松永教授です。

畠山さんは、すぐに電話を入れて、次の日の10時に合う約束をして寝台列車に乗り込んだそうです。

(この辺りの行動力は、真似たいところ。私も授業がうまくいかなかった次の日に仙台に取材に行ったことがあります(笑)何とかしたいと精一杯)

 

松永先生にお話を聞くと

植物プランクトン光合成をするのに鉄分が必要で、腐葉土層内の有機酸(フルボサンテツ)が鉄分と結びついて、海に流れていく。そして植物プランクトンに取り込まれると、鉄分だけを細胞にわたし、フルボさんは取り込まれず流れていくということです。

(多分あっていると思いますが、詳しく知りたい方は『いのちのふるさと海と生きる』田中克 を読んでください)

そして、1993年松永教授は1か月間調査を舞根で行い、湾内のフルボサンテツの多くが大川から流れてくることが分かったのでした。

 

松永教授は政治と学問を切り離していた方のようでしたが、この結果は「森は海の恋人」の活動に科学的な根拠を与えてくれるものになり、

大川のダム建設も中止されることになったそうです。

 

その後、植樹祭を繰り返していくうちに、赤潮は消え、豊かな舞根湾が帰って来たそうです。

舞根のカキは評判となり、これまでの努力が報われたということです。

(つづく)

 

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