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粕谷昌良の社会科授業日記

筑波大学附属小学校の粕谷昌良が社会科実践を報告します。

63.東京で唯一の村、檜原村~「檜原雅子」になった戸田雅子さん~ その⑤

さて、第三セクタースーパー「かあべえ」をあとにした私は、

北谷の郷土資料館へ向かいました。

郷土資料館に行けばそのまま教材になるというようなものはありませんが、その土地の歴史、地理、文化を知るうえで欠かせない場所です。

郷土資料館にいくと、学芸員さに丁寧に対応していただき、中を見ることにしました。年末なのでお客は私しかいません。

さて、郷土資料館で目に付いたのは、やはり林業です。林業に関わる道具と歴史が展示されていました。

また、目に留まったのは、昔の写真です。昭和の40年くらいまでの写真を見ると、人々の様子から山村での楽しく幸せな生活を感じ取ることができました。年を取ってきたせいなのか、どこの土地に行っても昔の風景の写真と、そこに移る人々の生業が懐かしくもあり、豊かにも感じられます。

自動車が普及し、道路路も整備されたので、時間的距離はぐっと短縮されました。私が今日、板橋の家から檜原村に来るのだって、わずか1時間余りのことでした。これが中央自動車道路を通らずに来たりだとか、自動車を使わず電車とバスできたりだとかしたら、数倍の時間がかかったことでしょう。そういう時間的距離の短縮が、人々の生活圏を広げ、物流を可能にしていったことが、村落の衰退に大きな関係があります。

村落と村落は、時間的距離の長大さから、今よりずっと緩やかにつながり、それぞれの独自性を生んでいたのです。人の移動も今よりずっと少なかったと思います。村は村の決まりやおきてがあり、今のように「グローバル」とは無縁だったんだと思います。

現在ではあっという間に移動できることから、少し人口のいるところなら企業が進出し、バイパス沿いにイ○ンとホームセンターとスタバと・・・のようにどこでも同じような風景が広がっています。

檜原はというと、人口が少なかったこともあるでしょうし、以前書いたように都心につながる主要道路は1本しかない山道であることから、開発はさせていません。林業の衰退とともに、産業がなくなり人口は半減したものの、見方を変えれば、都心からわずか1時間余りで、手つかずの自然と風景が残っているといえるのかもしれません。

 

そんなことを考えながら、郷土資料館を見ていました。

学芸員の方に「今、皆さんはどのように収入を得ているんですか?」質問をすると

林業が衰えてからは、主な産業がなく、公務員か公共事業に従事する人が多いでしょうか。あとは、村外に働きに出る人が多いです」ということでした。

なかなか、難しい取材になってきました。(続く)

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アユはすごく好きです。今年は食べていないから、早く食べたいなあ。

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62.東京で唯一の村、檜原村 ~「檜原雅子」になった戸田雅子さん~

のらぼう菜に縁がなかった私は、五日市から奥の檜原村に向かいました。

檜原村に入るには、東京からですと五日市から入ることになります。この道が檜原村の大動脈になると思います。他にも山梨の上野原や奥多摩湖の方からも入りますが、この2本は特に冬は凍結や降雪で大変なようです。

このような交通事情が、都心からわずか55キロメートル程度しか離れていないにもかかわらず、自然の風景をとどめている理由の一つになっているのだと思います。

さて、檜原村に入ると、町役場があります。町役場から北へ行く道と南へ行く道に分かれているので、ちょうど役場の交差点が扇のかなめのようになっていることになります。そこには役場の他に学校もありますし、観光協会、消防署などもあります。

以前新聞で見つけた、第3セクターのコンビニもそこにありましたので、入ってみました。

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中に入ると、コンビニくらいの大きさの小さなスーパーです。生活に必要なものが売られています。新しいのでとてもきれいです。

檜原村にはスーパーやコンビニがありませんのでこのスーパーができて買い物が便利になったようです。一方で古くからの商店の中には、売り上げが落ちたという話も後で聞きました。難しい事情もあるようです。教材になるかな?と考えましたが、保留することにしました。教材にできるというのは直観のようなものが働くのですが、このときはそれを感じませんでした。直観といってもわからないので、自分の教材感を考えてみることにしました。

私が教材にしたいと思う事象や人は、

 

①学習指導要領の内容として適合しているもの

②その地域だけでなく、全国の多くの地域で問題になっている社会問題を含む。

③社会問題に対して前向きに取り組み、子供たちが希望を感じるもの

④子供たちなりに考えを持てたり、選択できるもの。

⑤できることなら、関われたり、参加できたりするもの

 

といったことだと思います。

特に、③は魅力的な人物や取り組みに当たるので、子供たちの学習意欲を高めるために欠かせません。また、希望のある教材は、社会科の究極の目標である「将来の主権者の育成」「子供たちの主体的な社会へのかかわり」に大きな影響を与えると思います。

若年ほど選挙の投票率が低いことが指摘され、主権者教育の必要性が言われいます。多くは選挙に関心を持つようにとか、模擬投票の実践が多いようです。それは大切なことだと思いますが、わたしは前提として、社会に関わろうという意識を育むことが大切だと思います。

「どうせ、何も変わらない」と考え、社会の出来事に無関心になる若者が多いようです。毎日の報道を聞いているとさもあろうなと思います。しかし、実際の社会はどうでしょうか、以外にも熱意あふれ問題に立ち向かう大人が多いと思います。これまで、紹介してきた東京23区に海水浴場を取り戻そうと尽力されてきた関口さんや、地域の人のために完全無添加のお惣菜を作り続ける佐藤さん夫妻、後藤新平もそうでしょう。個人の幸せと同じくらい、周囲の幸せを大切にし、取り組んでいる気持ちの良い人たちがたくさんいます。

そういう、困難な状況でも、前向きに取り組む人たちを教材として取り上げ、希望を持ってほしいと思っています。それが、社会に関わろうとする大前提を作るのだと思います。時間がかかるかも知らませんが、大切なものを育むことほど時間はかかるものだと思います。

 

今回の第3セクタースーパー「かあべえ」は保留となりました。

事前に有力と思っていた、のらぼう菜とかあべえに振られて、焦りだす私でした。

(つづく)

 

61.東京都で唯一の村、檜原村(島嶼部を除く)~「檜原雅子」になった戸田雅子さん~その③

 

いよいよ檜原村に取材に出かけます。

前回少し書きましたが、今回は約束をした人物や目当ての場所がある取材とは違い、とにかく檜原村に行って、子供たちと学習するべき内容を見つけに行く道のりです。

そうはいっても、副読本やインターネットで調べてはいます。

また、私は新聞の切り抜きが趣味?で、檜原村には第3セクターのコンビニがあること、檜原村周辺ではのらぼう菜と江戸時代に飢饉を救ったとされる地場野菜があることなどは注目していました。

 さて、自家用車で檜原村を訪れます。八王子で中央道を降りて、最近できた?きれいなバイパスを通って、五日市に入っていきます。先ほど書いたように、檜原村周辺ではのらぼう菜が栽培されている土地なので、そのことも調べていきます。五日市の子安神社にのらぼう菜の記念碑があるということで行ってみます。

 ちょうど神社の氏子さんあっちが集まっていて、大晦日の準備をしていました。いつもながら私は運がよい。早速話かけると、たくさんのことを教えてくださいました。「この辺りでは昔からたくさん栽培されていて、最近は地場野菜の見直しから人気も出ているよ。のらぼう菜の祭りも開かれて盛り上がっている。なんか、普通の青菜と違ってシャキシャキしてうまい。先生にも食わしてやりたいがまだできていないよ。3月になったらこの辺の直売ではたいてい売っているから買いに来てください。まあ、先生も大変だね。お茶でも飲んでって。さあ。おーい。文京区から先生が調べに来たよ。ちょっと休もう・・・・」とそんな具合で長居をすることになりました。地域に伝わる伝統野菜とそれを大切にする人々ということで、郷土資料館で歴史を調べ、農家さんに取材をしていけば、とても良い教材になるなあと直感しました。簡単に栽培できいるということで、教室で作っても面白いなあ。想像は広がります。

 

ただ、のらぼう菜が収穫できるのは2月後半からだそうで、私は2月に授業しようと思っていましたので、見送ることにしました。縁がなかったということです。取材に行ったから必ず教材になるというものでもないのが難しいところ。

残念な気持ちで、五日市を後にし、檜原村に向かうのでした。(続く)

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60.東京都で唯一の村、檜原村(島嶼部を除く)~「檜原雅子」になった戸田雅子さん~その②

檜原村の教材研究

授業を作るにあたって取材をします。

取材に行く前に、大体の目星をつけていきます。

今回の4年生の特色ある地域でしたら、その地域の「地理的」「産業的」「行事的」特色を教材化するので、それをある程度調べてから行きます。

今回の檜原村は、東京都の社会科副読本にも掲載されていますので、副読本に目を通します。副読本には、標高の高い、谷間の地形。斜面でイモ類の畑作、温浴施設と都民の森、払沢の滝による観光などが掲載されています。副読本の印象は総花的です。

教科書は副読本では「知識・理解」の面を保証しなければならないという配慮から、どうしても、総花的な紙面構成になってしまいます。

しかし、社会科学習では「知識・理解」の他に「思考・判断・表現」「技能」「関心・意欲・態度」(新し指導要領では3観点に変わりますが)も保証しなければならないので、考え直す必要があります。

総花的な紙面ですと、どうしても思考力や判断力を発揮して、調べていく、解き明かしていくという授業はしにくくなります。

そこで、59でも書きましたが、単元を構成しなおす必要に迫られるわけです。

その形として良い指標となるのは

「起承転結」+アナザーストーリーです。

「起承転結」のストーリーとアナザーストーリを形成できる人物や事象を見つけるのが1回目の取材のねらいです。

 

ですから、取材するにあたっては、教科書や副読本はカタログのようなもので、「このような事象があるのだな」と心にとめて、その中でも気になったことは書籍やインターネットなどで調べておきます。

(時には、教材化する魅力的な人物や事象が決まっていていくときもあります。その方が気持ちはだいぶ楽です)

今回の檜原村取材において、調べていくと、人口減や学校の統合、主要産業だった林業の衰退など、厳しさが伝わってきます。

「なにか、子供たちに伝える教材はないか?」

と思いながら、2016年の年末に檜原村に向かいました。(続く)

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59.東京で唯一の村、檜原村(島嶼部を除く) ~「檜原雅子」になった戸田雅子さん~ その①

2か月近く休んでしまったので、もうやめてしまったのかと思われた方もいると思います。今日から再開していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

今回は、新しい学習指導要領の中から、「多角的に考える」について、「檜原雅子」実践を軸に、話を進めていこうと思います。

今回の提案はズバリ「アナザーストーリー」の単元構成です。某テレビ局のマネじゃないのかですって?痛いところを突かれましたが、その番組のファンでもあります(笑)お許しいただきたいと思います。

 

次期学習指導要領では、目標や内容を「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」「学びに向かう力・人間性」の3つの柱に沿って明確化されています。私はその中の「思考力・判断力・表現力」の育成に当たって、「多角的に考え」と記されていることに注目したいと思います。なぜなら、将来の主権者になる子供たちには、自分のことはもちろん、それとおないくらい周囲の人の気持ちも考えて、判断したり、行動したりすることが大切になると考えているからです。米国の大統領選挙と北朝鮮との対立、英国のEU離脱国民投票、仏国の大統領選挙、日本においても憲法改正問題など、2者択一による人々の分断は深刻で将来への展望を欠き、生産的でないように感じます。中間層の没落が既存の政治システムや移民などへの批判など、ナショナリズムの台頭を生んでいます。自分の生活を脅かされれば誰もが冷静でいられなくなる。そして、自分さえよければという発想になります。自分さえよければ・・・という考えはもとをただせば新自由主義や強欲なマネー獲得に行きつくかもしれません。実際没落した中間層の矛先は、彼らにも向いていると思います。しっぺ返しを食うのかもしれません。この様な現在の反省からきっと次世代のリーダーは、強硬に持論を主張できる人ではなく、多角的に物事を捉え、人々の輪を作れる人なのだと思います。特別なリーダーでなくても日常生活や仕事において、人と人をつないでいける人はとても魅力的で幸せな生き方をしているように感じます。そのために、私は、多角的に見ることができる授業として、複数の人の立場を考えたアナザーストーリーを教材化し、子供たちと学んでいきたいと考えています。具体的に述べていきます。

 

私は、子供たちが多面的に考える力を発揮するような授業は、「今まで見えなかったものが見えるようになる」授業だと考えています。

大人でも子供でも日ごろ見慣れた事象でも、社会科授業を通して、その事象を見る目ががらりと変わることがあります。例えば人気のテレビ番組(テレビの話が多いな)ブラタモリは一度は行ったことのある土地の裏をタモリさんと追究していくことで、その土地への見方ががらりと変わる面白さがあります。社会の事象の裏にある様々な工夫や願いが込められていることを理解したから見方が変わるのです。

子供たちにしても、「そんな理由があったのか?」「今まで全く気付かなかった」など、心を揺さぶられ、学ぶことや知ることの楽しさに気づいていくような授業ができたら?次の社会科授業や世の中の出来事についても進んで考えを巡らせるようになっていくと思います。

今まで見えなかったことが見えるようになる経験を通して、子供たちは主体的な学び手になっていくのだと思います。

では、「見えなかったものがみえるようになってくる」授業をどのよう作っていったらよいのだろうか?そこで、私はアナザーストーリーのある社会科授業を提案したいと思います。

アナザーストーリとは、私は英語が苦手であるがアナザーとは「もう一つの」という意味らしいですね。同じ物語を異なる視点から見ることです。

端的に言ってアナザーストーリの授業は、単元で複数の視点を入れることです。私たちは単元を構成するとき起承転結を意識することがあると思います。

単元の中心概念や中心人物を追い、深めていくのが「起承」。

そして、別の角度から見る「転」に当たる部分に「アナザーストーリー」を用いるのです。。これは、新しい指導要領の示す「多角的に考え」を学ぶことの具体的な手立ての一つだと考えています。

トーリーを追うことで社会事象への理解を深め、アナザーストーリーで多面的に考えていく。そして、2つ以上の立場から社会事象を見つめたうえで、自分なりにどうしたらいいのか主体的に判断する。これが「ストーリーとアナザーストーリー」のある社会科授業です。

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今回は、教材として、4年生の県内の特色ある地域を取り上げます。産業や自然・地理、伝統行事などに特色のある地域を学ぶことで自分の住んでいる都道府県への理解を深めていく単元です。今回は、自然・地理の特色を中心にして東京都の檜原村を取り上げます。

58.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」その⑬  ~未来につながる新平の志~

後藤は自分の立てた復興計画を実現できないまま、政界を去りました。

しかし、現在の東京には、昭和通りや大正通り、隅田川の復興橋脚、復興小学校など

後藤新平による復興といわれるものが多く残り、教材でも取り上げられています。

実際には新平が内務大臣として復興に当たったのはわずか120日ですから、新平が立てた復興計画が実施されたものもありますし、その後の人々が行ったものもあるのです。

特に、国の予算が削減された後、東京市が肩代わりした復興として、幹線道路の建設があります。

それを、資料として子供たちに提示します。

東京市長 永田秀次郎の演説大正十三年三月二七日「市民諸君に告ぐ」

市民諸君
我々東京市民は今やいよいよ区画整理の実行にとりかからなければならぬ時となりました。

第一に我々が考えなければならぬことは、この事業は実に我々市民自身がなさなければならぬ事業であります。決して他人の仕事でもなく、また政府に打ち任せて知らぬふりをしているべき仕事ではない。それ故にこの事業ばかりは我々はこれを他人の仕事として、苦情をいったり批評をしたりしてはいられませぬ。

我々は何としても昨年九月の大震火災によって受けた苦痛を忘れることは出来ない。父母兄弟妻子を喪い、家屋財産を焼き尽し、川を渡らむとすれば橋は焼け落ち、道を歩まむとすれば道幅が狭くて身動きもならぬ混雑で、実にあらゆる困難に出遇ったのである。我々はいかなる努力をしても、再びかような苦しい目には遭いたくはない。また我々の子孫をしていかにしても、我々と同じような苦しみを受けさせたくはない。これがためには我々は少なくともこの際において道路橋梁を拡築し、防火地帯を作り、街路区画を整理せなければならぬ。
もし万一にも我々が今日目前の些細な面倒を厭って、町並や道路をこのままに打ち棄てて置くならば、我々十万の同胞はまったく犬死したこととなります。我々は何としてもこの際、禍を転じて福となし、再びこの災厄を受けない工夫をせなければならぬ、これが今回生き残った我々市民の当然の責任であります。後世子孫に対する我々の当然の義務であります。
街路その他の公設物を整理するには、買収による方法と区画整理による方法とがあります。しかしながら今回のごとく主として焼跡を処理する場合は、区画整理による方法が最も公平であり、またもっとも苦痛の少ない比較的我慢しやすい方法であります。区画整理によりまして、道路敷地となった面積は皆その所有地に按分して平等に負担し、これが全面積の一割までならば無償で提供し、一割以上であればその超過部分に対して相当の補償を受ける、そして誰一人として自分の所有地を取られてしまう人がなく、皆換地処分によって譲り合って自分の土地が残る。苦痛も平等に受け利益も平等に受ける。かような都合の好い方法ではあるが、ほとんど全部の者が皆動くのであるから、この場合において初めて実行の出来る方法であります。この機会をはずしては到底行われない相談である。それ故いかにしても是非ともこの際に断行せなければならぬのである。

顧みますると、我々は震災後既に半箇年を経過しました。土地の値段も震災直後は二分の一か三分の一に下落したと思われたものが、今日では震災前と同一になりました。こうなって来ると段々に震災当時の苦痛を忘れて来て、一日送りに安逸を望み、土地の買収価格が安いとか、バラックの移転料が少ないとか、区画整理も面倒臭いとかいう気分の出て来るのも人情の弱点で、無理もありませぬ。しかし、我々はこの際、かような因循姑息なことを考えてよろしいでしょうか。実に今日における我々東京市民の敵は我々の心中の賊である。我々はまずこの心中の賊に打ち勝たねばならぬ。

世界各国が我々のために表したる甚大なる厚誼に対しても、我々は断じてこの際喉元過ぐれば熱さを忘れる者であるという謗りを受けたくはない。

区画整理の実行は今や既定の事実であります。ただ我々はどこまでもこれを国家の命令としてやりたくはない。法律の制裁があるから止むを得ないとしてやりたくはない。まったく我々市民の自覚により我々市民の諒解によってこれを実行したい。

我々東京市民は今や全世界の檜舞台に立って復興の劇を演じておるのである。我々の一挙一動は実に我が日本国民の名誉を代表するものである。

子供たちは、

・やっぱり貫いたものは、市民第一やちゃんとした後継者を育てることだと思った。永田秀次郎さんが区画整理をやってくれて、新平も安心したと思いました。最後の言葉にも出た「岡山・・・」は次の公演場所だったので、やっぱり未来は、政友会ではなく新平の案にも賛成できるような、日本を支える政治家を作り上げようとしたのだと思いました。
・死ぬ前に岡山といっていたので、市民への後援を大切にしていたのだと思います。後藤さんは市民のことを第一の考えていたのだと思います。 ボーイスカウトの初代総長になったり、ラジオを作ったりと市民を鍛えたり、役に立つものを作ったり、未来の人に役に立つことをしていると思います。
・橋の憩いを憩いの場所にするなんてなかなか思いつかないと思う。そんなことが思いつくなんて、やっぱり後藤は市民のことを大切に思っていたからだと思う。後藤さんがなくなった後も、後藤の思いをついで、がんばった人たちは本当にすごいと思う。後藤が最後まで市民のために頑張ったのも、永田さんたちがいたからだと思う。
後藤新平が本当に貫いたものは、市民の気持ち・心・思いだと思う。後藤の復興計画は、お金などの問題でやらなかったが、後藤がなぜ復興計画を考えられたのかは、市民の気持ち・心・おもいが分かっていたからだと思う。永田秀次郎が再び災いを受けない工夫。これは市民が考えることといっていた。もし、後藤の復興計画がされていれば、被害が少なかったはずだ。市民の気持ち・心・おもいが分かっていないと復興計画はできないと思う。
後藤新平が貫いたもの。それは東京(日本)は昔も今も未来も市民のものという思いだと思う。復興計画を作り、すぐ実行しようとしたのは未来を見つめてこと。自分の計画をあきらめて引退したのも速く復興に取り掛かることができるようにするためだった。政治は国や東京がどこへ向かうかを決める。政治家の仕事なのだけれど、その政治家を支えてるのは市民。政治家を選んでいるのは市民だ。今、後藤新平に会えたら、あなたの考えたように東京は市民のもの。私は市民だからこそ、東京について知り、考え向かう方向を考えます。と伝えたいと思う。そう考えることが新平の貫いたことを受け継ぐことになると思える。
・新平が最後まで貫いたもの、それは「市民が主役」という考え方。国を支えているのは市民一人一人なので、市民がよい市民であれば、国もそれだけ良い国になると思う。では、市民はどうすれば「良い市民」になるのか。まず一つは、不安のない生活がおくれること。だから新平は大震災で苦しみや不安を抱える市民の気持ちをあんじ、修正案を受け入れた。次に「良い市民」はすべてを国に任せるのではなく、自分たちの未来について、自分たちで考える力を持っていると思う。そのためには、市民自身が「自分たちが国や政治の主役だ」と思えることが大切。だから、新平は最後まで市民の声に耳を傾けたのだと思う。これら2つの理由で、新平が貫いたのは「市民ファースト」の精神だと僕は考える。
・私は市民が貫いたものは、市民の安全を第一に考えることだと思う。前にもらったプリントに「少ない予算でも早く成果を上げ、不安に駆られた市民の心を案じることが修正案を受け入れた理由である」と書いてあることから、そう思う。市民のため、国民のため。それは日本を西洋に追いつく良い国にしたいという信念だ。後藤新平の一生を調べると、政界に入る前は医師として日本で一番古い海水浴場を開いた。今ではリハビリにプールが使われているが当時は初めてだった。また、拓殖大学の学長時代には、「後藤先生は学生に対して慈愛に満ちた態度で接せられた」といわれている。えらい学長でもいつも心を学生に寄せていたんだと思った。
 政界後も、ボーイスカウトやラジオ放送に力を入れた。ボーイスカウトは、調べると「自信、他助、誠実、機知を持った青年を育む」とある。ラジオも市民へ情報がいち早く届くためだと思った。新平が一生を通じて貫いたものは、「人によりそい、助ける気持ち」だと思う。一人一人がよくなれば日本もよくなるからこそ、ボーイスカウトを作り、人を育てようとしたのだと思う。西洋のことを学んだのも日本をよくするためだと思う。
・ぼくは、後藤新平は決して政友会には負けていないと思う。政友会の案を受け入れたのは、一日も早く復興させてあげたかったからで、それをよいと思ったわけではない。そして、永田秀次郎などの新平の後継者も作り、その人たちは新平の跡を継いで東京を復興したから、決して負けていないと思う。

と意見を書きました。

後藤新平が貫いたものを考える本実践は、こうして終えることができました。

現在東京復興の象徴、良きリーダー、として語られることの多くなった後藤新平ですが、その一生を追っていくと彼が貫いた本当のものは、道路や橋など実際に復興された形に残るものより、人々の心に残した自治の精神であったことが分かります。 (繰り替えしになりますが、彼が内務大臣だった時間では実行できなかったのですから。)

自治の精神を子供たちなりに、実感的につかむことができたと思います。

そして、その気持ちは「公民としての資質・能力」の一部になると感じることができました。(おしまい)

57.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」その⑫  ~後藤新平が曲げてでも貫いたのも 後編 ~

前回(56回)、後藤が政友会の修正案を受け入れて、政界を去ったところまでを書きました。今回はその続きです。

 

さて、子供たちは、落胆の声を挙げます。

○自分の復興計画を最後まで貫いてほしかった。

○負けないでやり遂げてほしかった。

しかし、一方では、

○これ以上抵抗したら、復興までの時間がかかる。

○寒さで凍死した市民もいたようだから、速さを優先したんだよ。

など、市民を優先したという意見も出てきます。

 

では、当事者の新平はどのように考えていたのか?

長文の資料を提示し、ゆっくり読んでいきます。

 

「三百万市民に告ぐ」         1924年
後藤新平 

 私は火炎に包まれる帝都の惨状、苦しむ市民を見て、その任務がいかに重大であるかを自覚した。それと同時に、善後の大計を策定することが急務であると痛感した。すなわち政府が、第一に救護、第二に復旧、第三に復興の方針を打ち出すことに異論はないだろう。
 しかし、復興に当たっては、財政上の問題があるとして、一致をみることがなかった。当時の私はひそかに思った。帝都の被災は空前絶後である。これを復旧で満足するようであれば、単に現在の要求に適していないばかりか、後世の子孫に再び同一の災害に遭遇させる危険がないとは言えなくなる。都市の改善事業は最近の世界共通の問題であって、すでに科学的な研究もなされ、経費と努力を用いて、困難と闘いながら世界で広く行っている。今、これを行わなければ、いつこれを行う機会があるのだろうか。復旧は一見財予算が少なくてよいように見えて、将来においては実は少なくない浪費と化すだろう。これは市民のための計画として、忠実ではないばかりか、市民の志を揺さぶるものでもない。
 しかし、予算修正に対し、政府の面目を強調して、政友会と政治的に戦うことは、災害の復興計画を今かと待ちわびている三百万市民のためにとるべき手段でない。少ない予算でも速く成果を上げ、不安に駆られた市民の心を安んじることが、修正案を受け入れた理由である。
 ひるがえって、わが敬愛する市民のために最後に一言する。山本内閣は退き、私は民間に隠居している。しかし、帝都の復興は新しい内閣の手によって今後着々と進むにちがいない。
しかし、その実績の良し悪しは、市民諸君の双肩にかかっていることを忘れてはならない。とくに、自治能力を発揮することが大切である。新しい東京は市民諸君が作るものである。市民諸君は当然協力一致して、それによって、国家の運命と子孫のために、その自治能力を傾けていかなくてはならない。
 私は城西の田舎ぐらしをしているが、今も貢献したいと思っている。幸い、市民諸君の素晴らしい働きにより、帝都復興が日々進展していると聞いている。なんと喜ばしいことか。最後の予算修正で、私に国会を解散して戦うよう言ってきた人士は少なくない。もし、それをしていたら果たしてどうだったであろうか。市民諸君の活躍は生まれていたか。この後の計画は、諸君の自治の能力に依頼してやまないものである。

これを読むと、子供たちは

○やはり、市民のことを一番に考えていたんだ。

○自分のことよりも、市民を優先したのか。

そして、肝心のところに気づいていきます。

○「自治の能力」とある。自分が去っても、市民の力に期待したんじゃないか。

○自分が去っても大丈夫だと、市民への信頼があったんじゃないか。

○前に、歌ができたけど、それくらい新平と市民はつながりがあったんじゃないか?

子供は、新平が生涯を通して本当に貫いたことであろう「自治の能力」に気づいていきます。

まだ、気づきの段階です。そこで、スライドを見せます。

スライドには、政界引退後の新平が

ボーイスカウトの初代会長になり、普及に尽力した。

②ラジオを作った。日本のラジオ放送の第一声は新平の声。

③全国各地を講演して回った。自治の能力、市民のための政治という内容。

④最後に残した一言は「岡山・・・」次の講演先の地名だった。

そして、新平が亡くなった後の震災復興祭の賑わいの写真と新平の姿がなかったことを紹介し、スライドを閉じました。

 

そこで、「新平が本当に貫いたものは何だったのだろう?」と問いかけ、本時を終了しました。子供たちは、ノートに向かい(意見を書くため)授業を閉じました。次回は最終回です。その後の復興について学び、新平が残した「自治の力」を考えていきます。

 

児童の意見

・わたしは後藤新平がまさか政友会に従うとは思わなかった。しかも、これからもまだチャンスがあるかもしれないのに政界復帰しなかったのかも驚いた。新平が貫いたものは、たぶん市民の手助けだったのではないか。だから、メッセージ?で「市民諸君にかかっている」といっていたのではないか。
・僕は市民第一を貫いたんだと思う。医師をやったり、政治を頑張ったりした。政界を退いた後も、ボーイスカウトを応援した。ボーイスカウトは子供の教育にいいと知ったからやったのだろう。ラジオの東京放送局も、市民のくらうぃそ楽にするために作った。だから、新平は、市民のところ第一に考えていたのだと思う。
・私が、新平が貫いたものは市民生活をもっと便利にしたいということだと思う。最後までラジオを作ったり、ボーイスカウトの代表になったりしたのが理由だ。
・それは市民を思う心と復興をあきらめなかったことだと思う。市民を思う心は、政友会との戦わなかったのは、こんな戦いをしているより、少ないお金でもいいから早く復興させようとしていたからだ。そして、復興することをあきらめないのは、政治を引退しても市民のための政治を遊説していたことだ。これは、復興を全国に広めようと思ったからだと思う。
・新平が最後まで貫いてきたものは、市民の気持ち。そして、市民のための復興だと思う。新平のメッセージの中に「政府の面目を強調するのではなく、少ない予算では約成果を上げること。不安に思っている市民の心を安んじること」が決断の理由だとある。新平は政治家としての自己満足や理想論より、今苦しんでいたり、不安を抱えていたりする市民300万人の気持ちに寄り添うことを選んだんだと思う。
・やっぱり新平は自分勝手ではないと思いました。しっかりした復興を考えたから予算が多いのですが、政友会ともめたときも、時間の無駄になり、市民のためにはならないと判断したからです。政界に復帰しなかったのは、国を動かそうとしても簡単ではなく、今の東京では一人一人の努力ができると思ったのだと思います。新平が最後まで貫いたものは、私は、信念を曲げずに市民を守りたいという気持ちだったと思います。だからその後も、人を育てるという分野で活躍したんだと思います。
・新平が最後の決断の時に、政友会との話し合いが長引いて復興が始まらないのを恐れ、市民が一日でも早く復興に全員で迎えるように引退を選んだ。東京は政治家のものではなく、昔も今も未来も、市民のものと思ったと思う。市民が作ってほしいと考えたのもあると思う。

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