粕谷昌良の社会科授業日記

筑波大学附属小学校の粕谷昌良が社会科実践を報告します。

51.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」 その⑨ 新平と東京市民のつながり

年表から、新平が

・幼少期に藩が賊軍となり、他家に出されたこと。

・苦学して医師となり、公衆衛生に関心があったこと。

・台湾や満州で街づくりを進めたこと

・海外へ留学していたこと

・降格人事を受け入れて、東京市長になったこと

・市長になって、給与を全額寄付したこと

などを学びました。

さらに、新平の言葉を児童に続けて示します。

「私は復興事業については自分で当たるよりほかはないと決心しました。私に直接させるようにしたのは東京市民の後援であると思っております。先に東京市長であったのはわずかな間でありますが、東京市民諸君のご好意をいただきました以上、これに報いる道を取らざるを得ないとわたしに決心させたのであります。この大震災に当たって、努力のいかんにかかわらず、東京市民の後援をあったならば、いかなる難事であっても成し遂げえると考えたのです。私は内務大臣になることを、8月28日に約束していたのではありません。ただ、あの震災が私に内務大臣になるようにしたのです。」

と、東京市民への感謝と思いを口にしています。

一方の東京市民は?というと、

♪銀座街頭泥の海 種をまこうというたも夢よ アラマ オヤマ
 帝都復興善後策 道もよくなろ 街もよくなろ 電車も安くなる エーゾ エーゾ
新平さんに頼めば エーゾ エーゾ

これは関東大震災後にできた「復興節」の一説である。どんな沈んだ世の中でも、人々は歌を求めている。「復興節」はたちまち多くの人に歌われることになった。「新平さんに頼めば エーゾ エーゾ」 


ここには、バラックで必死に生きようとする東京市民の、後藤への期待が感じられます。

すべての市民がこのように期待していたとは、もちろん言えないと思います。しかし、歌ができるということは期待の大きさを伺うことができます。

この両者のつながりの中で、新平は復興計画に着手するわけですが、

政界では、後藤は猛烈な反対にさらされることになります。(続く)

子供の感想

・歌まであるくらい市民から信頼されているんだなと思った。後藤は一人の命でもいいから助けたかったのだと思う。最初は一人しか助けられないが、医者の仕事を始めて、そのうち政治家なら一気にもっと多くの人を助けられると気づき、政治家になったんだと思う。

・後藤さんは小さいころ自分の藩がつぶれたりして平民にさせられたり苦労をして大きくなったので、平民の気持ちを理解していた。だから東京が地震でダメになったとき、だれもが住みやすく、活動しやすい場所にしようと努力したのだと思う。完璧な東京を目指したのがすごい。私が新平さんなら反対に託さなったらあきらめていたかもしれない。
・僕はなぜ新平が100年後の世界が分かったのかというと、医者から政治家になり、外国留学もしていたので、次に来た時に備えて、外国の良いところ+人の命を奪われない方法を考えて計画したから、何億かけてでもよいと思った。

・僕は新平が100年後を見通すことができた予想は3つある。一つは新平が11歳の時に、戊辰戦争を経験してもう人を死なせたくなかったからだと思う。2つ目は41歳の時、台湾の植民地化の経験があったから、そして3つ目は45歳の時、ヨーロッパを視察したことだ。これらのことにより進んだ技術を知ったりして計画を立てることができたのだと思う。
・医者という仕事をしていたので、人とは違う発想で病気も行政も考えられたんだと思う。だから、ごちゃごちゃした東京を見て、これではいけないと先を考えたんだと思います。
・僕はやはり市民に共感したからだと思う。医師を昔やっていて、公衆衛生に関心もあった。きっと街そのものをよくして、みんなを助けたかったんだと思う。外国のいいところも知っていたので、100年後を把握できたのだと思う。

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50.明日から筑波大学附属小学校の公開研究会! ~謎の先に見ある真実をつかめるか?~

明日から2日間、

2月9日(木)10日(金)と筑波大学附属小学校

「学習公開・初等教育研修会」が行われます。

私は2日間とも、社会科の授業をします。

9日は、現在連載中の

「東京のまちづくり、今むかし」~後藤新平が曲げてでも貫いたもの~

10日は、

「東京都唯一の村、檜原村島嶼部を除く)」~地域おこし協力隊はまちを起こせるか~

を行います。

9日、後藤新平の授業は、復興会議を重ね、いよいよ予算決定をする場面で、後藤の政敵である政友会が、さらなる予算削減と後藤の復興院の予算を削除するよう求めてきた場面を扱います。

後藤が心血を注いだ復興計画を否定するだけでなく、後藤の政治生命を奪おうとする政友会に対して、後藤の対応はただ一つ。解散総選挙に打って出ることしか残されていません。部下や友人のビアード博士が解散を支持するなか、後藤の決断はどうなのか迫っていきます。

後藤がその生涯の集大成として建てた、未来の東京の復興図を貫けるのかどうか。ついにクライマックスです。教材研究をしてきた私は、少しウルウルです。

子供たちも盛り上がています。

 

10日の檜原村の授業。檜原村に派遣された地域おこし協力隊のインタビュー記事から、制度の難しさを感じた子供たちは、檜原の名産品パンフレットに「檜原雅子」に注目します。変な名前だ。どうやら紅茶を生産している人らしい。それにしてもどうして「檜原雅子」なのか?

子供の予想は

東京ばな奈のように、檜原をアピールするため。

・笑いを取るため。

・檜原が好きだから。

・檜原に住んでいるから。

・でも、それじゃたくさんのひとが「檜原」になってしまう。

・僕だったら、渋谷区に住んでいるから「渋谷○○」

・だったら。俺も「渋谷◇◇」

・どっちが本物?。

・俺だ

・僕だよ。

・もめるね。

・偉い人なんじゃない。

・村長の奥さんか?

・檜原に一番詳しいんじゃない。

・一番年寄りなんじゃない。

・紅茶を檜原で初めて作った人じゃない?

などと予想。いずれにしても、「檜原雅子」となるくらいだから、

檜原に昔から住んでいて、みんなから一目置かれていると予想。

 

しかし、予想は見事に裏切られる。

「檜原雅子」は本当は「戸田雅子」さん。

しかも移住者だったのです。

どうして、移住者が檜原を名乗れるのか?

深まる謎。謎のその先にあるものは?

「檜原雅子」を通して地域おこしに必要なものは何か考えていきます。

 

どちらも、この数か月、私が取材を重ね、次期指導要領を見据え、

社会的なものの見方や考え方を意識した授業です。

「その先にある真実」をつかむことができるか?

子供と精一杯楽しみながら授業をしたいと思います。

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49.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」 その⑧ 新平の内面を探る子供たち

「復旧しただけでは再びの災害を防げない」

「人力車の時代に40mもの幅の広い道路」

「広い親水公園、鉄筋の橋」など、

当時の人が理解できないような計画を立てた新平。

いったい「どうして新平は100年後を見据えることができたのか」

それを考えていきます。

子供たちの予想は

・苦しむ市民に共感したのではないか。

・自身の研究をしていたのではないか。

・子供のころに何か経験したのではないか。

・政府としての役割を考えたのではないか。

・必ず地震は来るという確信があった。

というもの。

そこで、関東大震災を迎えるまでの新平の年表を調べました。

4年生らしい、歴史的なものの見方・考え方は、

「過去にさかのぼって調べたらわかる!」という必然があることだと思います。

この場合はまさにそれです。まあ新平が歴史上の人物なので、その新平の過去・歴史という二重構造ですけど(笑)

示した年表は以下のようなものです。

誕生から、青年期
1857年 現岩手県奥州市水沢区 留守家家士後藤家の長男として生まれる

1867年(明治元年)11歳 戊辰戦争で仙台藩敗れる

1878年(明治2年)12歳 留守家削封に伴い後藤家は平民になる。新平は他家に預けられる。

1874年(明治7年)17歳 福島の医学校に入学

1876年(明治9年)19歳 愛知県立病院に勤務。ローレッツ博士に指導を受ける。公衆衛生に関心。

1881年(明治15年)24歳 愛知医学校長就任

1882年(明治16年)25歳 岐阜で襲撃された板垣退助を手当てする。

1890年(明治23年)33歳 ドイツへ留学

医師から政治家へ
1892年(明治25年)35歳 内務省衛生局長に就任

1895年(明治28年)38歳 日清戦争からの帰還兵の検疫を指導。

1898年(明治31年)41歳 台湾の植民地化。町づくり・統治に関わる。

1902年(明治35年)45歳 新渡戸稲造とともにヨーロッパ視察

1906年(明治39年)49歳 南満州鉄道総裁就任 満州朝鮮半島と北部)の町づくり・統治をする。

1908年(明治41年)51歳 逓信大臣 鉄道院総裁

1916年(大正5年)59歳 内務大臣・鉄道院総裁

1917年(大正6年)60歳 都市研究会を発足させ、会長に就任。

1918年(大正7年)61歳 外務大臣を兼任

1920年大正9年)63歳 東京市議会、渋沢栄一らの勧説で、東京市長就任

1921年(大正10年)64歳 市長俸給全額を市に寄付。東京の町づくり「8億円計画」の提出

1923年(大正12年)66歳 東京市長辞職
              関東大震災 内務大臣・帝都復興院総裁

 

子供たちは、ここから意見を出し合って、考えていきます。

すると

戊辰戦争日清戦争など、戦争を経験しているので人を死なせたくないという気持ちが強いのでは。

・武士から平民になったから、平民の苦労を知ってるから助けたいと思ったんじゃないか。

・いや、台湾や満州で街づくりを経験しているから、その経験が大きいんじゃないか?

・そうだよね。経験しているから、どうやったらいいか考えが浮かぶんだと思う。

・外国にも留学しているから、そこで、立派な街を見てきたんだと思う。

・医者として公衆衛生に関心があったと書いてあるから、衛生的な街はどういう風な街なのか考えていたんじゃないか。

東京市長にもなっていたから、震災以前から東京の町づくりを考えていたんじゃない。

・だから、お金がもったいないというより、お金は市民のために使うべきという考えがあったんじゃないか。

・医者っていうのは、一人しか救えないでしょ。でも政治家は一度に大勢を救えるから、政治家としてできることを考えたんじゃないか。

などの意見が出されました。

私は、新平の台湾・満州での経験は大きいと思います。子供たちもそこに気づいています。さらに、「医師は一人しか救えないけど、政治家は大勢を救える」という意見。新平がそのような気持ちで、政治家になったかどうかは私の調べではわかりませんが、物の考え方として、いいなあと思いました。今度、博物館の中村さんに聞いてみたいと思います。

以前の、「市民の側から」という児童の発言も素晴らしかったのですが、子供たちは私を越えてくるのでそういう時はうれしくなります。授業をしていて楽しい時です

新平は、どうして100年後を考えることができたのか?それは新平にしかわからなのですが、年表からその内面を探りました。さらに深く探るために、新平がどうして東京市長、内務大臣になったのか。彼の言葉から考えます。(次回へ)

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48.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」 その⑦ 新平に賛成なのか、反対なのか

新平の復興計画は反対にあい、30億円以上の計画は5億円弱まで減らされてしまったことを学びました。

ここで、「どうして、反対されたのか?」という学習問題を作るのが、子供の問題意識に沿っていますし、復興計画の内容を学ぶためには、自然でよいと思います。

しかし、あえて子供たち一人一人に「あなたは新平の復興計画に賛成かな?」と問います。どうしてかというと、新平と同じ時代に生きた立場になって考えるとともに、市民としての自分の選択や判断を育てていきたいと考えるからです。社会に関わる力を社会科では育てていきたいからです。

さて、「あなたは新平の復興計画に賛成かな?」と問うと、調べが十分でない分、

①その当時に人の立場になって考えたり、

②現在の自分の生活と照らし合わせたり、

して、意見を述べます。

十分に調べてから意見を述べ合うと、情報過多になり、宙に浮いたような言葉を使う子供も見られます。また、たくさん調べた子供ばかりの発言が目立つようになります。

最初は、だれでも自分の考えを思いっきり述べることが大切だ思います。そして、議論をして、もっと調べたいという気持ちを育てることが大切なのです。

話し合いは、下の黒板のように展開しました。(さらに下へ続きます)

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新平に賛成の意見は

①復旧では、地震が起きるたびに同じことが繰り返されるから。

②市民は、復興を望んでいたはずだ。

③人の命は、お金には変えられない。

を要点として、活発に意見を述べました。

 

反対の意見は

①お金がかかりすぎる。当時は戦争をしていたし、税金は市民の負担になる。

②東京の復興に、国家予算のすべを使えないだろう。

③自動車専用道路など、当時の人には理解されないだろう。

というものでした。

 

両方の立場の意見は

○「お金」と「人命」

○当時の人に新平の考えは伝わらない

という2点に集約されていたと思います。

また、すごいなあと思った意見は、

新平のような偉い人が上からやろうといっても駄目。東日本大震災の時は募金とかボランティアとか市民からやろうとしたでしょ。だから、市民からやろうという風にならなければだめ

というものです。これを聞いて、夏に行ったごみの学習の「有料化」と「上勝のゼロ・ウェイスト」を思い出したのは、私だけではなかったでしょう。

市民(市民としての資質)として大切なことを考えているようで、うれしくなりました。すごい。

 

それにしても、「どうして新平は100年先を考えることができたのでしょうか」次回はそれを課題に残して授業を閉じました。(次回へ)

 

児童の感想

・新平の意見に賛成です。みんなの意見にもあったように、今お金を使わなければまた地震が繰り返され、余計にお金がかかることになるので、その時にしっかり対策をしておけばよかったのに。
・お金をかけすぎだというが、私はそうは思わない。自信は自然災害だから止めることはできない。だから、どの地方も地震は起きる。お金をかけるのは仕方がない。人の命とお金は交換できないから
・僕は授業中、松田君が言っていた「首都だから、別に東京だけ復興したとしても、不公平にはならない」という意見に反対だ。例えていうと王様と老人がいて「無料で家を建てる」という看板を二人がみて、王様無料で家を作ってもらえたが、老人は作ってもらえなかった。この様に立場が異なると帝王が変わるのは変。お金を払わずに火事になって人の命が奪われたら、という意見には賛成。でも、同じ時期、日本全体がお金不足におちいっていたので、東京がいくら首都だからといっても、東京の復興にだけ、大金は使えないと思う。
・私は賛成。税金=復興。市民が出したお金は、復興のためになる。しかも、早めに災害に強い街を作っておかなければ、大変なことになってしまう。
・今だから腰税金が増えてしまってもやるべきだと思う。また、たくさんの命を失わないようにやろうとする取り組みは大変だけど私は賛成したいです。
・日本は地震の多い国で、過去に多くの被害を出しているのだから、改善してできるだけ、被害を防ぐ万全な対策が必要だと思う。後藤は素晴らしい案を出したが、費用がかかりすぎるのですべては実現されなかった。費用がかかっても人命のほうが大切だし、日本の首都だから東京が崩れたら日本もくずれてしまう。最初に東京、次に広がていけばいいと思う。
・僕は賛成です。なぜなら復旧で、また同じ地震が起きてもまたボロボロになったら意味がないから、筆耕してよりよくし、市民に安心させたい。まほちゃんが言っていた「お金は、人の命にかえられないという意見は、とても良いと思う。人の命にかえらええないからこそ、不幸のためにお金を使う。これが僕の意見です。

・私は新平の案に反対です。なぜかというと新平の計画は当時の東京都の予算の40年分。そして国家予算の2年分。借金をすればその利息を返さなくてはいけない。このことを知っていたら未来を考えていたといえるのだろうか。けれども、30億円から5億円は少なすぎると思う。けれど環状2号線の1.4キロメートルだけで、2700億円もかけているから、昔なおした方が、お金は安く済んだかもしれない。
・当時の人たちは、新平の計画を理解できないと思う。お金をかけても災害は、完全には防げない。それに税金は僕たちが払うものだから、急に増えても困る。
熊本地震東日本大震災も市民が自分から募金をしている。でも、後藤新平さんは関東以外の人からも無理やり税金を出させているのはひどいと思う。100年先を考えているといったが、100年後ももし税金を払っていたらということも考えてほしい。でも、新平さんが言いたいこともわかる。今度いつ来るかわからないが、今よりも被害を避けるために東京を復興したいという気持ちもわかる。

 

47.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」 その⑥ 削減される予算案

新平が立てた復興計画は、

幹線道路の整備 道幅40m以上

隅田公園など大公園

隅田川など橋脚の整備

小学校などの建物の耐震化(鉄筋)と隣接公園

などに及び、事業費は33億円(他県を合わせると50億とも)とも言われました。

これは、当時の日本の国家予算が15億円、東京市の年間予算が1億1千万円でしたから、いかに巨額であったかが分かります。

そのため、

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のように、復興会議が開かれるとともに、縮小されてしまいます。

子供たちには、上の写真を見せると、

・新平さんの体も小さくなっていく。

・顔色も悪くなっていく。

・どうして反対されたんだ。

・予算が高すぎるんだよ。

などと言いながらも、予算が縮小されたことに反対する児童が多いのです。感想は以下のようになりました。どうして反対されたのか。それを、子供たちは新平の復興計画に賛成かどうかを問いながら考えていきます。(次回へ)

 

後藤新平が関東団震災の後、未来の設計図を想像して作った。それはたくさんのお金が必要だった。だから少ししか実現しなかった。その少しの奇跡の坂が、私たちのそばの播磨坂だったというところに驚いた。
後藤新平の復興案に賛成だ。その理由は、もう一度同じことが繰り返されるより、50億かかってもいいから被害が最小限にした方がいいと思う。結局は予算を少なくすることもできると思う。また同じことが起これば直すのにお金がかかる。後藤新平さんは、100年後(僕たちぐらいの世代)のことを考えてくれてとてもすごい人だと思う。
・もし私が震災にあい、生き残った人だったら、後藤さんの大賛成だ。きっと50億円から5億円になったときにはびっくりし、憤慨したことだろう。どうして後藤さんの考えに反対した人がいるのかわからない。この授業で、火災の恐ろしさを知った。逃げたところも焼けてしまい、人の上を歩き、逃げる。想像できないくらい怖いことだ。だから賛成なのだ。私はこのことを知って播磨坂がすごいと感心した。
・僕は新平に賛成だ。反対する人たちの意見だと、また同じことが起こったときに耐えられず復旧にお金がかかり、それが積み重なるととんでもないお金になってしまう。自分たちの生きている時代のことしか考えていない。でも、反対する人の気持ちもわかる。その頃は、人力車が通っていた。新平は自動車用の道路を計画していた。常識じゃ考えられないことだ。だけどやっぱりその先まで考えている新平の考えは正しいと思う。
・播磨坂がなぜ広いかというと復興道路だからだ。関東大震災の時は道幅が狭く、火がすぐ燃え移って大火災になり、たくさん人が死んだ。だから新平は100年先を見越した災害に強い街づくりを目指した。でも50億円もかかる計画案だったので5億年に削られて残念だと思った。私は新平の案に賛成だ。なぜなら、未来の人たちの命を助けることにつながるからだ。
・私は今までと違う東京で、人々の命を無駄にさせない。という目標が後藤さんにあると思う。今までの失敗を生かして、新しいことをすることに私は賛成だ。
後藤新平の復興案に反対する人が出てしまった。復興予算が10分の一になってしまいました。理由は?という気持ちになります。反対する理由がみんなが納得できるような理由があるならまだしも、理由がないのに減らすのはダメだと思います。しかも、減ってしまった5億円で中途半端な復興をしても意味がないと思います。つまり、やるなら徹底的にやらないと復興は無駄になってしまうと思います。
・復興するにあたって、調べてみたところ、地方に人が東京ばかりに金をかけるな!と反対したらしい。でも東京は日本の首都なんだから外国の人もやってくる。そんなときに日本の首都がだめだったら、日本に悪い印象ができてしまう。もし、5億の不幸だけで防災ができなかったら、日本は防災ができない国だと思われる。災害は必ず起きるのだから、それが広がりにくい対策を考えた30億円の復興計画が実現してほしかった。
・僕はあまり賛成ではありません。なぜなら復興案の費用が少し高すぎると思います。そのころは月収50円くらいです。50億のお金を使うのは少し使いすぎだと思います。今の五輪の費用でも文句を言われているけど、復興の費用も5億に下げられておかしくないと思います。
・新平が計画した復興のために50億は高すぎると思う。国の予算が13億なのに予算の4倍だと国民の税金を大幅に増やして国民に今よりもっと負担をかけてしまうからです。しかし、後藤は復興のためにすぐに震災の復旧に取り掛かったことはすごいと思う。
・私は予算に注目してみた。国や都が使うお金は、国民や都民が税金で払うことになる。復興予算をどれくらいにするかは、①どれくらい必要か、②どれくらい税金が支払えるか、の両方を考える必要がある。当初、復興予算は30億円。当時の国の予算約15億年の2倍。今の国の予算は約100兆円なので、その2倍は200兆円。200兆円の税金を払えるのか。
 今の国の税金は約50兆円。都の税金は5兆円。約200兆円は、国の税金の4年分。都の税金で40年分となる。国民や都民はそんなに高い税金を払うことはできない。どれだけ、税金を払えるかの面で問題があったと思う。
 最終的に、復興予算は5億円になった。同じように考えると、国の税金の7カ月分、都の税金の約6年分。これでも大きな金額だが、当時計画された道路を今、もっとたくさんのお金をかけて作っているところもある。どれだけ必要なのかの面で、もっとお金をかけてもよかったのかもしれない。

 

 

 

46.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」 その⑤ 市民にこたえるために立ち上がった新平

関東大震災の時、加藤友三郎首相の死去に伴い内閣がありませんでした。山本権兵衛が組閣を進めていたのですが9月1日には成立はしていません。無政府状態で震災が起こったのです。関東大震災前夜、後藤新平は山本首相から内務大臣としての入閣を打診されていましたが、外交をしたくて入閣を固辞していました。しかし、震災が起こると後藤は一転して内務大臣を引き受け9月2日には就任します。

後藤本人の回想では、「私は復興事業については自分で当たるよりほかはないと決心しました。私に直接させるようにしたのは東京市民の後援であると思っております。先に東京市長であったのはわずかな間でありますが、東京市民諸君のご好意をいただきました以上。これに報いる道を取らざるを得ないとわたしに決心させたのであります。」とある。東京の惨状をみて、市民に復興を固く誓ったのだろうと思います。

さて、45回のおばあさんの話で「非難しても命を奪われることがある」ことを学んだ子供たちは、後藤が復興に挑んだことを知ります。私から資料を出します。

資料は新聞記事と書籍をもとに編成したものです。以下のようになっています。

 

9月1日の正午前、大地が激しく揺れた。メモ魔だった新平の手帳には「零時より大地震数回。炎、炎天を焼く」と書かれている。新平はすぐに行動を開始する。2日には山本内閣の内務大臣に就任し、次々に復興の献策をした。新平の頭脳が回転し、2日の手帳には早くも復興予算「15億円」の記載が見える。都市計画の世界的権威である米国のビアード博士の招へいも書かれている。4日には復興素案を山本首相に提出した。
素案は①遷都はしない。②復興予算は30億円。③欧米最新式の都市計画の採用④新都計画実施のため土地を買い上げるためには地主へ断固たる態度をとるの4項目だった。
まず①遷都はしないと表明したのは、東京の壊滅を見た多くの政治家が京都や宇都宮への遷都を考えたという。市民も大いに動揺したというが、それに対して市民の不安を取り除き、東京を復興させる勇気を与えるために必要な宣言だった
②③④について、東京は江戸時代からの街並みを受け継いでいたため、家屋は長屋・木造、道路は狭く、舗装が未実施、晴れた日には土埃で先が見えないほどであったという。道幅が狭いということは、火災が広がりやすく、消防車も通行できないということだ。それを道幅が広く舗装された道路にしようと考えた。
震災や火災になると被害が巨大になることは江戸時代から続く、東京の悩みだった。新平はそれを「復興」を合言葉に、日本の首都として欧米の都市に負けない災害に強い街づくりを目指した。新平の描いた新東京は大きな幹線道路が縦横に走り、防災に心を砕いた都市だった。それは形だけのものではなく、人を中心に考え、100年先を見越したものだった。
その方針は大正天皇の名前で9日には国民に発表されるに至った。新平は驚くべきスピードで計画を進めていった。  (胆江日日新聞 2012年1月1日号 岩手日報 平成11年10月4日から作成)

 

子供たちは、後藤の行動に共感します。

・東京の長年の課題を解決しようとしていてよいと思う。

・私が震災にあった人だったら、ぜひ復旧ではなく、復興をしてほしいと思う。

後藤新平の復興案に賛成だ。その理由は、もう一度同じことが繰り返されるより、50億かかってもいいから被害が最小限にした方がいいと思う。

・私は今までと違う東京で、人々の命を無駄にさせない。という目標が後藤さんにあると思う。

 

子供たちは、おばあさんの話と後藤の行動から、「復興」と「復旧」の違いを具体的にイメージできたのではないかと思います。

社会をよりよくするということへつながる後藤の行動に、子供たちは賛成するのですが、実際には後藤は大変な目に合うのです。(次回)

45.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」 その④ おばあさんの回想から、「公助」の役割に気づく

関東大震災の写真と映像を見た後、

関東大震災の時、7歳だったおばあさんのインタビュー映像を子供たちに見てもらいました。

おばあさんのインタビューは東京mxテレビの映像です。

おばあさんは、下のように話していました。(細部は違いますが、要点はあっています)

「近所の人と公園に逃げて、夕方には家に帰れるかなと思っていました。七輪で食事をとる人もいたくらい。しかし、突然『ウー』っと、つむじ風が襲ってきて、みんな吹き飛ばされてしまった。人が飛ばされるなんて思ってもいなかった。私も飛ばされたけど、幸い水の中に落ちたので助かりました。家族はどこか飛ばされてしまった。

走って逃げる人の髷が燃えていました。髷は油がついているから燃えやすく、走るとあっという間に頭に広がって、倒れて・・・・。それっきり動かない。

逃げるにも、道が狭いから逃げにくい。

死んでいる人の上を、ごめんなさい、ごめんなさい、といってわたっていくしかなかったのです。

もう放心状態でした

今でも昨日のことのようによみがえってくるのね。」といって涙を流されていました。

 

子供たちの感想には、

・死体の上を越えていくしかなかったなんて。

・逃げたと思っても、火事のつむじ風に襲われるなんて、どうしたらよかったんだろう。

避難訓練とか、自分たちの力ではどうしようもなかったんだ。

と書かれていました。

逃げても逃げ切れない。災害に対する東京の町の弱点を実感させられるお話でした。

 

そこで、新平が出てくる必要があったのです。

現在、東日本大震災以降、自助・共助・公助の枠組みが学校でも語られることが多く、その中で、「釜石の出来事」のように、公助の限界と自助の大切さが焦点を浴びることが多い気がします。

それは、とても大切だと思います。私も前任校では自助をクローズアップさせる実践を行っていました。しかし一方で、「公助」の価値も十分に考えなくてならないと思います。関東団震災はおそらく、自助や共助が徹底されていたとしても、被害は食い止められなかったのではないかと感じるからです。

よりよい社会を作るには、個人やコミュニティーの役割は大切です。それだけでなく、国や地方公共団体の役割を実感的に理解できる、貴重な学習機会が後藤新平の事例にように感じてなりません。

 

授業は、個人では限界があるというところまで、押さえて、

震災直後の新平の行動に移っていきます。(つづく)

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