粕谷昌良の社会科授業日記

筑波大学附属小学校の粕谷昌良が社会科実践を報告します。

46.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」 その⑤ 市民にこたえるために立ち上がった新平

関東大震災の時、加藤友三郎首相の死去に伴い内閣がありませんでした。山本権兵衛が組閣を進めていたのですが9月1日には成立はしていません。無政府状態で震災が起こったのです。関東大震災前夜、後藤新平は山本首相から内務大臣としての入閣を打診されていましたが、外交をしたくて入閣を固辞していました。しかし、震災が起こると後藤は一転して内務大臣を引き受け9月2日には就任します。

後藤本人の回想では、「私は復興事業については自分で当たるよりほかはないと決心しました。私に直接させるようにしたのは東京市民の後援であると思っております。先に東京市長であったのはわずかな間でありますが、東京市民諸君のご好意をいただきました以上。これに報いる道を取らざるを得ないとわたしに決心させたのであります。」とある。東京の惨状をみて、市民に復興を固く誓ったのだろうと思います。

さて、45回のおばあさんの話で「非難しても命を奪われることがある」ことを学んだ子供たちは、後藤が復興に挑んだことを知ります。私から資料を出します。

資料は新聞記事と書籍をもとに編成したものです。以下のようになっています。

 

9月1日の正午前、大地が激しく揺れた。メモ魔だった新平の手帳には「零時より大地震数回。炎、炎天を焼く」と書かれている。新平はすぐに行動を開始する。2日には山本内閣の内務大臣に就任し、次々に復興の献策をした。新平の頭脳が回転し、2日の手帳には早くも復興予算「15億円」の記載が見える。都市計画の世界的権威である米国のビアード博士の招へいも書かれている。4日には復興素案を山本首相に提出した。
素案は①遷都はしない。②復興予算は30億円。③欧米最新式の都市計画の採用④新都計画実施のため土地を買い上げるためには地主へ断固たる態度をとるの4項目だった。
まず①遷都はしないと表明したのは、東京の壊滅を見た多くの政治家が京都や宇都宮への遷都を考えたという。市民も大いに動揺したというが、それに対して市民の不安を取り除き、東京を復興させる勇気を与えるために必要な宣言だった
②③④について、東京は江戸時代からの街並みを受け継いでいたため、家屋は長屋・木造、道路は狭く、舗装が未実施、晴れた日には土埃で先が見えないほどであったという。道幅が狭いということは、火災が広がりやすく、消防車も通行できないということだ。それを道幅が広く舗装された道路にしようと考えた。
震災や火災になると被害が巨大になることは江戸時代から続く、東京の悩みだった。新平はそれを「復興」を合言葉に、日本の首都として欧米の都市に負けない災害に強い街づくりを目指した。新平の描いた新東京は大きな幹線道路が縦横に走り、防災に心を砕いた都市だった。それは形だけのものではなく、人を中心に考え、100年先を見越したものだった。
その方針は大正天皇の名前で9日には国民に発表されるに至った。新平は驚くべきスピードで計画を進めていった。  (胆江日日新聞 2012年1月1日号 岩手日報 平成11年10月4日から作成)

 

子供たちは、後藤の行動に共感します。

・東京の長年の課題を解決しようとしていてよいと思う。

・私が震災にあった人だったら、ぜひ復旧ではなく、復興をしてほしいと思う。

後藤新平の復興案に賛成だ。その理由は、もう一度同じことが繰り返されるより、50億かかってもいいから被害が最小限にした方がいいと思う。

・私は今までと違う東京で、人々の命を無駄にさせない。という目標が後藤さんにあると思う。

 

子供たちは、おばあさんの話と後藤の行動から、「復興」と「復旧」の違いを具体的にイメージできたのではないかと思います。

社会をよりよくするということへつながる後藤の行動に、子供たちは賛成するのですが、実際には後藤は大変な目に合うのです。(次回)