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粕谷昌良の社会科授業日記

筑波大学附属小学校の粕谷昌良が社会科実践を報告します。

51.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」 その⑨ 新平と東京市民のつながり

年表から、新平が

・幼少期に藩が賊軍となり、他家に出されたこと。

・苦学して医師となり、公衆衛生に関心があったこと。

・台湾や満州で街づくりを進めたこと

・海外へ留学していたこと

・降格人事を受け入れて、東京市長になったこと

・市長になって、給与を全額寄付したこと

などを学びました。

さらに、新平の言葉を児童に続けて示します。

「私は復興事業については自分で当たるよりほかはないと決心しました。私に直接させるようにしたのは東京市民の後援であると思っております。先に東京市長であったのはわずかな間でありますが、東京市民諸君のご好意をいただきました以上、これに報いる道を取らざるを得ないとわたしに決心させたのであります。この大震災に当たって、努力のいかんにかかわらず、東京市民の後援をあったならば、いかなる難事であっても成し遂げえると考えたのです。私は内務大臣になることを、8月28日に約束していたのではありません。ただ、あの震災が私に内務大臣になるようにしたのです。」

と、東京市民への感謝と思いを口にしています。

一方の東京市民は?というと、

♪銀座街頭泥の海 種をまこうというたも夢よ アラマ オヤマ
 帝都復興善後策 道もよくなろ 街もよくなろ 電車も安くなる エーゾ エーゾ
新平さんに頼めば エーゾ エーゾ

これは関東大震災後にできた「復興節」の一説である。どんな沈んだ世の中でも、人々は歌を求めている。「復興節」はたちまち多くの人に歌われることになった。「新平さんに頼めば エーゾ エーゾ」 


ここには、バラックで必死に生きようとする東京市民の、後藤への期待が感じられます。

すべての市民がこのように期待していたとは、もちろん言えないと思います。しかし、歌ができるということは期待の大きさを伺うことができます。

この両者のつながりの中で、新平は復興計画に着手するわけですが、

政界では、後藤は猛烈な反対にさらされることになります。(続く)

子供の感想

・歌まであるくらい市民から信頼されているんだなと思った。後藤は一人の命でもいいから助けたかったのだと思う。最初は一人しか助けられないが、医者の仕事を始めて、そのうち政治家なら一気にもっと多くの人を助けられると気づき、政治家になったんだと思う。

・後藤さんは小さいころ自分の藩がつぶれたりして平民にさせられたり苦労をして大きくなったので、平民の気持ちを理解していた。だから東京が地震でダメになったとき、だれもが住みやすく、活動しやすい場所にしようと努力したのだと思う。完璧な東京を目指したのがすごい。私が新平さんなら反対に託さなったらあきらめていたかもしれない。
・僕はなぜ新平が100年後の世界が分かったのかというと、医者から政治家になり、外国留学もしていたので、次に来た時に備えて、外国の良いところ+人の命を奪われない方法を考えて計画したから、何億かけてでもよいと思った。

・僕は新平が100年後を見通すことができた予想は3つある。一つは新平が11歳の時に、戊辰戦争を経験してもう人を死なせたくなかったからだと思う。2つ目は41歳の時、台湾の植民地化の経験があったから、そして3つ目は45歳の時、ヨーロッパを視察したことだ。これらのことにより進んだ技術を知ったりして計画を立てることができたのだと思う。
・医者という仕事をしていたので、人とは違う発想で病気も行政も考えられたんだと思う。だから、ごちゃごちゃした東京を見て、これではいけないと先を考えたんだと思います。
・僕はやはり市民に共感したからだと思う。医師を昔やっていて、公衆衛生に関心もあった。きっと街そのものをよくして、みんなを助けたかったんだと思う。外国のいいところも知っていたので、100年後を把握できたのだと思う。

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