粕谷昌良の社会科授業日記

筑波大学附属小学校の粕谷昌良が社会科実践を報告します。

57.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」その⑫  ~後藤新平が曲げてでも貫いたのも 後編 ~

前回(56回)、後藤が政友会の修正案を受け入れて、政界を去ったところまでを書きました。今回はその続きです。

 

さて、子供たちは、落胆の声を挙げます。

○自分の復興計画を最後まで貫いてほしかった。

○負けないでやり遂げてほしかった。

しかし、一方では、

○これ以上抵抗したら、復興までの時間がかかる。

○寒さで凍死した市民もいたようだから、速さを優先したんだよ。

など、市民を優先したという意見も出てきます。

 

では、当事者の新平はどのように考えていたのか?

長文の資料を提示し、ゆっくり読んでいきます。

 

「三百万市民に告ぐ」         1924年
後藤新平 

 私は火炎に包まれる帝都の惨状、苦しむ市民を見て、その任務がいかに重大であるかを自覚した。それと同時に、善後の大計を策定することが急務であると痛感した。すなわち政府が、第一に救護、第二に復旧、第三に復興の方針を打ち出すことに異論はないだろう。
 しかし、復興に当たっては、財政上の問題があるとして、一致をみることがなかった。当時の私はひそかに思った。帝都の被災は空前絶後である。これを復旧で満足するようであれば、単に現在の要求に適していないばかりか、後世の子孫に再び同一の災害に遭遇させる危険がないとは言えなくなる。都市の改善事業は最近の世界共通の問題であって、すでに科学的な研究もなされ、経費と努力を用いて、困難と闘いながら世界で広く行っている。今、これを行わなければ、いつこれを行う機会があるのだろうか。復旧は一見財予算が少なくてよいように見えて、将来においては実は少なくない浪費と化すだろう。これは市民のための計画として、忠実ではないばかりか、市民の志を揺さぶるものでもない。
 しかし、予算修正に対し、政府の面目を強調して、政友会と政治的に戦うことは、災害の復興計画を今かと待ちわびている三百万市民のためにとるべき手段でない。少ない予算でも速く成果を上げ、不安に駆られた市民の心を安んじることが、修正案を受け入れた理由である。
 ひるがえって、わが敬愛する市民のために最後に一言する。山本内閣は退き、私は民間に隠居している。しかし、帝都の復興は新しい内閣の手によって今後着々と進むにちがいない。
しかし、その実績の良し悪しは、市民諸君の双肩にかかっていることを忘れてはならない。とくに、自治能力を発揮することが大切である。新しい東京は市民諸君が作るものである。市民諸君は当然協力一致して、それによって、国家の運命と子孫のために、その自治能力を傾けていかなくてはならない。
 私は城西の田舎ぐらしをしているが、今も貢献したいと思っている。幸い、市民諸君の素晴らしい働きにより、帝都復興が日々進展していると聞いている。なんと喜ばしいことか。最後の予算修正で、私に国会を解散して戦うよう言ってきた人士は少なくない。もし、それをしていたら果たしてどうだったであろうか。市民諸君の活躍は生まれていたか。この後の計画は、諸君の自治の能力に依頼してやまないものである。

これを読むと、子供たちは

○やはり、市民のことを一番に考えていたんだ。

○自分のことよりも、市民を優先したのか。

そして、肝心のところに気づいていきます。

○「自治の能力」とある。自分が去っても、市民の力に期待したんじゃないか。

○自分が去っても大丈夫だと、市民への信頼があったんじゃないか。

○前に、歌ができたけど、それくらい新平と市民はつながりがあったんじゃないか?

子供は、新平が生涯を通して本当に貫いたことであろう「自治の能力」に気づいていきます。

まだ、気づきの段階です。そこで、スライドを見せます。

スライドには、政界引退後の新平が

ボーイスカウトの初代会長になり、普及に尽力した。

②ラジオを作った。日本のラジオ放送の第一声は新平の声。

③全国各地を講演して回った。自治の能力、市民のための政治という内容。

④最後に残した一言は「岡山・・・」次の講演先の地名だった。

そして、新平が亡くなった後の震災復興祭の賑わいの写真と新平の姿がなかったことを紹介し、スライドを閉じました。

 

そこで、「新平が本当に貫いたものは何だったのだろう?」と問いかけ、本時を終了しました。子供たちは、ノートに向かい(意見を書くため)授業を閉じました。次回は最終回です。その後の復興について学び、新平が残した「自治の力」を考えていきます。

 

児童の意見

・わたしは後藤新平がまさか政友会に従うとは思わなかった。しかも、これからもまだチャンスがあるかもしれないのに政界復帰しなかったのかも驚いた。新平が貫いたものは、たぶん市民の手助けだったのではないか。だから、メッセージ?で「市民諸君にかかっている」といっていたのではないか。
・僕は市民第一を貫いたんだと思う。医師をやったり、政治を頑張ったりした。政界を退いた後も、ボーイスカウトを応援した。ボーイスカウトは子供の教育にいいと知ったからやったのだろう。ラジオの東京放送局も、市民のくらうぃそ楽にするために作った。だから、新平は、市民のところ第一に考えていたのだと思う。
・私が、新平が貫いたものは市民生活をもっと便利にしたいということだと思う。最後までラジオを作ったり、ボーイスカウトの代表になったりしたのが理由だ。
・それは市民を思う心と復興をあきらめなかったことだと思う。市民を思う心は、政友会との戦わなかったのは、こんな戦いをしているより、少ないお金でもいいから早く復興させようとしていたからだ。そして、復興することをあきらめないのは、政治を引退しても市民のための政治を遊説していたことだ。これは、復興を全国に広めようと思ったからだと思う。
・新平が最後まで貫いてきたものは、市民の気持ち。そして、市民のための復興だと思う。新平のメッセージの中に「政府の面目を強調するのではなく、少ない予算では約成果を上げること。不安に思っている市民の心を安んじること」が決断の理由だとある。新平は政治家としての自己満足や理想論より、今苦しんでいたり、不安を抱えていたりする市民300万人の気持ちに寄り添うことを選んだんだと思う。
・やっぱり新平は自分勝手ではないと思いました。しっかりした復興を考えたから予算が多いのですが、政友会ともめたときも、時間の無駄になり、市民のためにはならないと判断したからです。政界に復帰しなかったのは、国を動かそうとしても簡単ではなく、今の東京では一人一人の努力ができると思ったのだと思います。新平が最後まで貫いたものは、私は、信念を曲げずに市民を守りたいという気持ちだったと思います。だからその後も、人を育てるという分野で活躍したんだと思います。
・新平が最後の決断の時に、政友会との話し合いが長引いて復興が始まらないのを恐れ、市民が一日でも早く復興に全員で迎えるように引退を選んだ。東京は政治家のものではなく、昔も今も未来も、市民のものと思ったと思う。市民が作ってほしいと考えたのもあると思う。

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