粕谷昌良の社会科授業日記

筑波大学附属小学校の粕谷昌良が社会科実践を報告します。

58.「後藤新平が曲げてでも貫いたもの」その⑬  ~未来につながる新平の志~

後藤は自分の立てた復興計画を実現できないまま、政界を去りました。

しかし、現在の東京には、昭和通りや大正通り、隅田川の復興橋脚、復興小学校など

後藤新平による復興といわれるものが多く残り、教材でも取り上げられています。

実際には新平が内務大臣として復興に当たったのはわずか120日ですから、新平が立てた復興計画が実施されたものもありますし、その後の人々が行ったものもあるのです。

特に、国の予算が削減された後、東京市が肩代わりした復興として、幹線道路の建設があります。

それを、資料として子供たちに提示します。

東京市長 永田秀次郎の演説大正十三年三月二七日「市民諸君に告ぐ」

市民諸君
我々東京市民は今やいよいよ区画整理の実行にとりかからなければならぬ時となりました。

第一に我々が考えなければならぬことは、この事業は実に我々市民自身がなさなければならぬ事業であります。決して他人の仕事でもなく、また政府に打ち任せて知らぬふりをしているべき仕事ではない。それ故にこの事業ばかりは我々はこれを他人の仕事として、苦情をいったり批評をしたりしてはいられませぬ。

我々は何としても昨年九月の大震火災によって受けた苦痛を忘れることは出来ない。父母兄弟妻子を喪い、家屋財産を焼き尽し、川を渡らむとすれば橋は焼け落ち、道を歩まむとすれば道幅が狭くて身動きもならぬ混雑で、実にあらゆる困難に出遇ったのである。我々はいかなる努力をしても、再びかような苦しい目には遭いたくはない。また我々の子孫をしていかにしても、我々と同じような苦しみを受けさせたくはない。これがためには我々は少なくともこの際において道路橋梁を拡築し、防火地帯を作り、街路区画を整理せなければならぬ。
もし万一にも我々が今日目前の些細な面倒を厭って、町並や道路をこのままに打ち棄てて置くならば、我々十万の同胞はまったく犬死したこととなります。我々は何としてもこの際、禍を転じて福となし、再びこの災厄を受けない工夫をせなければならぬ、これが今回生き残った我々市民の当然の責任であります。後世子孫に対する我々の当然の義務であります。
街路その他の公設物を整理するには、買収による方法と区画整理による方法とがあります。しかしながら今回のごとく主として焼跡を処理する場合は、区画整理による方法が最も公平であり、またもっとも苦痛の少ない比較的我慢しやすい方法であります。区画整理によりまして、道路敷地となった面積は皆その所有地に按分して平等に負担し、これが全面積の一割までならば無償で提供し、一割以上であればその超過部分に対して相当の補償を受ける、そして誰一人として自分の所有地を取られてしまう人がなく、皆換地処分によって譲り合って自分の土地が残る。苦痛も平等に受け利益も平等に受ける。かような都合の好い方法ではあるが、ほとんど全部の者が皆動くのであるから、この場合において初めて実行の出来る方法であります。この機会をはずしては到底行われない相談である。それ故いかにしても是非ともこの際に断行せなければならぬのである。

顧みますると、我々は震災後既に半箇年を経過しました。土地の値段も震災直後は二分の一か三分の一に下落したと思われたものが、今日では震災前と同一になりました。こうなって来ると段々に震災当時の苦痛を忘れて来て、一日送りに安逸を望み、土地の買収価格が安いとか、バラックの移転料が少ないとか、区画整理も面倒臭いとかいう気分の出て来るのも人情の弱点で、無理もありませぬ。しかし、我々はこの際、かような因循姑息なことを考えてよろしいでしょうか。実に今日における我々東京市民の敵は我々の心中の賊である。我々はまずこの心中の賊に打ち勝たねばならぬ。

世界各国が我々のために表したる甚大なる厚誼に対しても、我々は断じてこの際喉元過ぐれば熱さを忘れる者であるという謗りを受けたくはない。

区画整理の実行は今や既定の事実であります。ただ我々はどこまでもこれを国家の命令としてやりたくはない。法律の制裁があるから止むを得ないとしてやりたくはない。まったく我々市民の自覚により我々市民の諒解によってこれを実行したい。

我々東京市民は今や全世界の檜舞台に立って復興の劇を演じておるのである。我々の一挙一動は実に我が日本国民の名誉を代表するものである。

子供たちは、

・やっぱり貫いたものは、市民第一やちゃんとした後継者を育てることだと思った。永田秀次郎さんが区画整理をやってくれて、新平も安心したと思いました。最後の言葉にも出た「岡山・・・」は次の公演場所だったので、やっぱり未来は、政友会ではなく新平の案にも賛成できるような、日本を支える政治家を作り上げようとしたのだと思いました。
・死ぬ前に岡山といっていたので、市民への後援を大切にしていたのだと思います。後藤さんは市民のことを第一の考えていたのだと思います。 ボーイスカウトの初代総長になったり、ラジオを作ったりと市民を鍛えたり、役に立つものを作ったり、未来の人に役に立つことをしていると思います。
・橋の憩いを憩いの場所にするなんてなかなか思いつかないと思う。そんなことが思いつくなんて、やっぱり後藤は市民のことを大切に思っていたからだと思う。後藤さんがなくなった後も、後藤の思いをついで、がんばった人たちは本当にすごいと思う。後藤が最後まで市民のために頑張ったのも、永田さんたちがいたからだと思う。
後藤新平が本当に貫いたものは、市民の気持ち・心・思いだと思う。後藤の復興計画は、お金などの問題でやらなかったが、後藤がなぜ復興計画を考えられたのかは、市民の気持ち・心・おもいが分かっていたからだと思う。永田秀次郎が再び災いを受けない工夫。これは市民が考えることといっていた。もし、後藤の復興計画がされていれば、被害が少なかったはずだ。市民の気持ち・心・おもいが分かっていないと復興計画はできないと思う。
後藤新平が貫いたもの。それは東京(日本)は昔も今も未来も市民のものという思いだと思う。復興計画を作り、すぐ実行しようとしたのは未来を見つめてこと。自分の計画をあきらめて引退したのも速く復興に取り掛かることができるようにするためだった。政治は国や東京がどこへ向かうかを決める。政治家の仕事なのだけれど、その政治家を支えてるのは市民。政治家を選んでいるのは市民だ。今、後藤新平に会えたら、あなたの考えたように東京は市民のもの。私は市民だからこそ、東京について知り、考え向かう方向を考えます。と伝えたいと思う。そう考えることが新平の貫いたことを受け継ぐことになると思える。
・新平が最後まで貫いたもの、それは「市民が主役」という考え方。国を支えているのは市民一人一人なので、市民がよい市民であれば、国もそれだけ良い国になると思う。では、市民はどうすれば「良い市民」になるのか。まず一つは、不安のない生活がおくれること。だから新平は大震災で苦しみや不安を抱える市民の気持ちをあんじ、修正案を受け入れた。次に「良い市民」はすべてを国に任せるのではなく、自分たちの未来について、自分たちで考える力を持っていると思う。そのためには、市民自身が「自分たちが国や政治の主役だ」と思えることが大切。だから、新平は最後まで市民の声に耳を傾けたのだと思う。これら2つの理由で、新平が貫いたのは「市民ファースト」の精神だと僕は考える。
・私は市民が貫いたものは、市民の安全を第一に考えることだと思う。前にもらったプリントに「少ない予算でも早く成果を上げ、不安に駆られた市民の心を案じることが修正案を受け入れた理由である」と書いてあることから、そう思う。市民のため、国民のため。それは日本を西洋に追いつく良い国にしたいという信念だ。後藤新平の一生を調べると、政界に入る前は医師として日本で一番古い海水浴場を開いた。今ではリハビリにプールが使われているが当時は初めてだった。また、拓殖大学の学長時代には、「後藤先生は学生に対して慈愛に満ちた態度で接せられた」といわれている。えらい学長でもいつも心を学生に寄せていたんだと思った。
 政界後も、ボーイスカウトやラジオ放送に力を入れた。ボーイスカウトは、調べると「自信、他助、誠実、機知を持った青年を育む」とある。ラジオも市民へ情報がいち早く届くためだと思った。新平が一生を通じて貫いたものは、「人によりそい、助ける気持ち」だと思う。一人一人がよくなれば日本もよくなるからこそ、ボーイスカウトを作り、人を育てようとしたのだと思う。西洋のことを学んだのも日本をよくするためだと思う。
・ぼくは、後藤新平は決して政友会には負けていないと思う。政友会の案を受け入れたのは、一日も早く復興させてあげたかったからで、それをよいと思ったわけではない。そして、永田秀次郎などの新平の後継者も作り、その人たちは新平の跡を継いで東京を復興したから、決して負けていないと思う。

と意見を書きました。

後藤新平が貫いたものを考える本実践は、こうして終えることができました。

現在東京復興の象徴、良きリーダー、として語られることの多くなった後藤新平ですが、その一生を追っていくと彼が貫いた本当のものは、道路や橋など実際に復興された形に残るものより、人々の心に残した自治の精神であったことが分かります。 (繰り替えしになりますが、彼が内務大臣だった時間では実行できなかったのですから。)

自治の精神を子供たちなりに、実感的につかむことができたと思います。

そして、その気持ちは「公民としての資質・能力」の一部になると感じることができました。(おしまい)