粕谷昌良の社会科授業日記

筑波大学附属小学校の粕谷昌良が社会科実践を報告します。

69.東京で唯一の村、檜原村~「檜原雅子」になった戸田雅子さん~ その⑪

戸田さんから連絡を受けた私は、

すぐにお会いする約束をさせていただきました。

戸田さんは檜原に移住したものの、旦那さんとお子様たちは都内にいるとのことでしたので、そちらの家で会うことになりました。

自家用車(自称社会科キャラバン号。足が固いので贅肉が揺れる)で行ったので、アイフォンナビで戸田さん宅に到着したものの、住宅街なのでとめることがない。大分過ぎたコインパーキングにとめてダッシュ。するとお宅の前で戸田さんが微笑んでらっしゃた。

「わかるかなーとおもいまして。」

ありがたいことです。

戸田さんは、いろいろな話をしてくださいました。

ご自身の子供のころから、お仕事のこと、檜原に移ったことなど、

楽しい時間が過ぎていきました。

取材記録

書道の先生を目指していましたが、国語の先生として、東京都立高校に勤めていました。子供のころは、読書が好きで、いつも机にかじりついていたので、父親からカマボコと呼ばれていました。子供のころは大田区に住んでいました。大田区は京浜工業地帯でして、同級生は町工場・家族工場ではたらいていました。そういう同級生は中学校を卒業すると町工場に就職しました。小さいころからやっているから、過ぎに立派な戦力になっていました。私は高校へ行きました。  当時は高度経済成長期で、東北から「金の卵」といって、中学校を卒業した人がたくさん東京に就職に来ました。そういう人たちは、優秀で向学心があったので「夜学」に通って高校卒業の資格を取っていました。私はなんとなく高校に行っていました。5月に中学の同級生に合うと、羽田のラウンジに行ったんですね。コーヒーを飲んだりして。その会計の時に工場ではたらいている友達が払ってくれた。大人だなと思った。今では考えられないけど、当時は全日制より定時制のほうが進学率が高かったんですよ。生きていくことに関して偏差値なんて関係がないなあと思いました。

 高度経済成長で東京はどんどん開発されていきました。金の卵といわれた人がどんどんやってきて、東京を変えていったんだと思います。彼らには東北などに帰る「ふるさと」がある。でも、私たちはここが「ふるさと」なんだけど、どんどん開発されてしまう。私には帰る場所は他にはないんです。私の家は祖父から東京にいたから、田舎に親戚なんかなかったんです。だから、「東京に住んでいる人にとってのふるさとは?」って思っていました。そんな時期がすぎて、東京の村である檜原を見つけました。

 檜原に初めて来たのは昭和62年(1987年)。家が売り出されたので見に行ったんです。車で上がれない急斜面で、途中から歩いていくと家がありました。住みたいと思いました。その時は買えなかったけど、そこに3年くらい通いました。畑を耕したりしました。檜原のおばあちゃんたちに、サツマイモの苗を10本から15本に増やす技とか、ジャガイモは彼岸までに植えろとか、コンニャクイモのこととか。とにかく体で覚えることが大切なんだと思いました。そして、平成2年(1989年)に檜原村に移住しました。退職はまだでしたが、退職したら好きな書道をやろうと思ってアトリエのような家を作りました。退職まで檜原から三田高校まで通っていました。

そのうちに農地を譲ってもらいました。うちの隣でした。そこは背の高い木が茂っていて、茂っているからイノシシとかアナグマとかが住み着いて、農作物を荒らすから、思い切って背の高い木を切っていきました。そうしたらすっきりしました。でも、それが思いがけないことへの入り口でした。

 実は、その背が高い木はお茶の木でした。お茶の木は切ると新芽が出るらしいのです。私が思い切って切ったものだから、すごく良い新芽が出たみたい。もちろん私にはわからなかったけど、隣に住んでいる清水ひろこさんというおばあさんが教えてくれたんです。そうしたらひろ子さんは「戸田さん。せっかくだから茶摘みしてみない?」というのです。経験がなかったけど、せっかくだからやってみることにしました。初めて積んだ日のことを今も覚えています。3つの葉に分かれた新芽を「これかな?」と思いながら一生懸命つんでいきました。ひろ子さんはすごくてきぱきとつんでいる。80歳を越えようとしているのに。1日で24キロもつんだんです。ほとんどひろ子さんがつんだんだけどね。大変な思いをして積んで、それを五日市のお茶屋さんに持って行って、お茶にしてもらった。うれしかったですね。

 檜原では、昔から各家庭にお茶の木があって、それを女性がつんで、男性がもんで、お茶にして家庭で消費していたみたい。でも、だんだん作らなくなっていったそうよ。手間がかかるし、人もいなくなったから、できなくなったのおね。ずっと続いてきた茶畑は荒れていきました。だから、よく見るとお茶の木はその辺にあるんですよ。藪をきれいにすると勢いよく新芽を出すんです。

 その翌年は38kgも取れました。でも、一度にお茶屋さんに出せるのは20kgが限度です。それ以上は車には乗せられないし、体力が持たない。もっと人がいればいいんだけど、人はいないでしょ。摘む人はおばあさんたちが集まってくれて4人になったけど、ぜんぜん足りない。新芽の時につんで、それを放っておくとどうしても悪くなってしまう。そこで、紅茶なら、すぐに蒸したりしなくていいからと思いついて、紅茶を始めたわけ。手もみで作りはじめました。そういう風にしていると、イギリス留学した友達が、スリランカの紅茶のブレンダーを紹介してくれたの。ブレンダーは紅茶生産の中では一番カギを握る仕事で、ブレンダーがいろいろな茶葉を混ぜて、常にその店の味を出すことができるんです。でも、私は思ったの。そういう紅茶とは目指すところが違うなって。檜原の生活の味、手もみの紅茶でいいんじゃないかって。売るためのお茶がひのはらのお茶じゃなかったでしょ。

2010年たった3キロしかないのに売り出したんです。2011年の滝祭りでも好評でした。2012年お茶の葉が集まるようになって、100キロも集まったんです。とても一人ではできないから静岡の鞠子に頼んで持っていくことにしました。朝4時に出発します。窓を開けながら。お茶の葉が悪くならないように。山梨を越えて、富士山のわきで、ちょっと一休み。そして静岡の鞠子へ。朝ついて、夕方までその工場の作業を手伝って、夕方静岡を出発。檜原には夜中。そういう生活をしていたわ。夢中でしたね。でも、そうしていたら、その鞠子の会社の西村さんが、持ってくるのは大変だからって、機械を譲ってくれたんです。あっという間の決定。自分のうちにお茶の工房が作られました。

 現在「ひのはら紅茶」は500円で売っています。もし、10000個売れたら、500万円の売り上げです。でも、経費に300万円かかるから、利益は1年間に200万円です。200万円だったらやる気のある若者が後を継いでくれるかもしれない。でも今は2000個の販売です。だから、利益も40万円。これでは難しい。頑張って10000個売るのが目標です。袋の印刷代ももったいないから、全部手書きなのよ。

 「ひのはら紅茶」を茶摘みから製造しているのは、88807770歳のおばあさんです。おばあさんたちの力はまだまだすごいけど、このままだと、ずっと生活に根差してきた、檜原の生活に根差したお茶の文化も継承されなくなってしまう。だから、何とかしたいとは思っているのね。

 わたしも、よそから入ってきた人でしょ。だから、良くしたいからって、押し付けてはダメ。困っていたら寄り添うように助言する。これがいいんだと思うのよ。

 先生、明日は厳冬祭りだから、いろいろな人を紹介するわ。檜原にいらっしゃい

 

午前9時に始まった取材が終わったのは1330をまわっていました

取材をかなりの数こなしいている私にしても、ここまで話し込んだのはないかもしれません。戸田さんのエネルギーはすごい。

明日は急きょ、檜原村に飛ぶことになりました。厳冬祭りかあ。厚着して行こう。

(続く)

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