粕谷昌良の社会科授業日記

筑波大学附属小学校の粕谷昌良が社会科実践を報告します。

89.「福島のおコメは安全です。胸を張って言えるけど、食べてくれなくてもいいんです」 その⑤

南相馬の小高の農家、三浦広さん。

 

震災前に比べて、収穫量が4割になってしまった浜通りの農家の方はどうしているんでしょうか。

子供たちは、「福島から離れたくないから、会津に移動して農業をしているかも」「もう農家をしていないんじゃないか」「他の仕事かな」など、いろいろな意見を出します。きっと、どれも当たっているに違いありません。今回は一つの事例として私が取材した三浦広志さんを取り上げます。三浦さんのお宅は南相馬市小高で農地もそこにあります。原発から12kmと大変近い位置にあります。ですから、そこで農業をすることは難しいのです。そこで現在三浦さんは、北の相馬市に水田を借りて稲作をしています。また、NPO法人野馬土の理事長として農業と直売所、市や県、国との交渉に当たっています。 その資料を子供と読みます。

 

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○震災当日はどうしていたのですか

 重税反対集会とデモ行進をしていました。デモ行進をしていると大きな揺れが起きました。あまりに大きな揺れだったので、参加者はみんな携帯で家族に電話をかけましたがつながらない。どうしようか考えていたけど、とにかくデモをやってしまおうと・・・・・。

相馬税務署に行くと税務署に人は「本当に来たんですか?中はめちゃくちゃです。」だって。とにかく交渉を終わらせました。このとき地震から1時間くらいたっていたでしょうか。デモに参加したみんなの形態もつながり始めた。するととんでもない事態だというのです。私の携帯にも電話があって、家族はみんな福浦小学校に避難したと。すぐに仲間の車に乗せてもらい、そこに向かったんですが、小高に近づくと道から水が噴き出ていて、車が流されていく。津波のことは昔から言われてきたけど、目の当たりにした現実のあまりにすごさに驚かされた。車を下してもらい、歩いて山を越え、水を避け、ようやく避難場所の小学校につきました。もうあたりは真っ暗でした。小学校も停電しているからどこもかしこも真っ暗で誰が誰だか。ようやく家族を見つけて、その日は不安の中で車の中で一夜を過ごしました。翌朝家を見に行ったら、家の周りは一面の水浸し。まるでうみのようです。農業はもうできないなと直感した。

 そんな時、すぐとなりの浪江の人が逃げているといううわさが流れてきました。私はその時、津波で家も水田も水浸しになったから、原発のことなんて考えもしなかったのです。原発関連の会社に勤めている同級生が家族に真っ青な顔をして「後は頼むぞ」と言い残して夜中に出ていった。家族にも事情を話さなかったところを見ると相当大変なことが起こっているに違いない。とにかく逃げよう。逃げる準備をしているとき、「まもなくベントします」と放送が流れてきた。12日の朝のことです。市役所の人に、すぐに避難先を変えろと言ったが、避難命令が出ていないから動けないという。動けない人もいる。仕方がないので家族を連れて、25k離れた中学校に避難しました。一号機が爆発したのはそのひの夕方でした。とんでもないことになった。私は車の中でずっとラジオを聞いていました。情報を集めるしかなかったのです。まずいなと思った。みんながバスに乗せられてここに避難してきた。

 私はそのとき娘がいたから、被爆させたくなくて、相馬まで逃げていきました。南相馬から避難してきた私たちは避難所から出されて遺体安置所に入れられた。私たち南相馬の人は隔離されたのです。放射線をだれもが恐れていたのです。環境はどんどん悪くなって、水もトイレもないところでぎゅうぎゅうになっていった。16日には親戚のいる東京へ避難しようと決めたが、道が壊れている。雪の降る中、何とか伊達市まで避難したが食べるものもなく、山のフキノトウを食べた。後で知ったが、その日は放射線量が高く、福島ではなんと24マイクロシーベルトを記録したといいます。18日に高速がつながてトラックが走ったという声が聞こえた。東京の娘の宿舎にいく。私の父と母と息子は千葉県の多古町で生活することになった。

 このとき、農業のことなんて正直考えられませんでした。逃げるので精いっぱい。情報を集めることに必死でした。私の家の田んぼはもともと海だった場所を干拓して、農地にしたのです。父の代は洪水が起きるとすぐに水浸しになって。父はそんな中、毎回水を汲んで一生懸命は水田を守ってきました。長く水利組合長をやり、自分のお金を出してまで、水をくみ出す施設工事をしてきました。父は自分の一生をかけて小高の農地を開墾したのです。だから、父は水浸しになってしまった田んぼを見て、放射能で汚染されたと聞き、千葉に逃げた後も「水を汲んでくれ!」と私に訴えるのでした。でも「放射線が高いから無理なんだよ」というと、元気をなくしていきました。私が福島に様子を見に行くときも父に「行かないか?」と誘うのですが「おれはいい」と静かに言う。自分の人生のすべてをかけてきたものを失ったのです。日に日に元気がなくなり、薬も拒否しました。父は2011年10月7日千葉県でなくなりました。福島に帰ったのは2014年のことです。

 

○何年後に福島に戻ったのですか

 いやいや2011年の5月30日です。南相馬の仮説住宅に入りました。復興組合を作り、田んぼのがれきひろいを始めました。生活に困るから補助をもらおうと国の役人に交渉したら「福島のような危険なところには行けない」という。かっとなって興奮したが、そうしても仕方がない。とにかく粘り強く交渉を続けました。

 農業をどうするか。南相馬の小高では当分の間、米は作れないと分かっていました。でも原発から少し離れた南相馬から相馬に行くと米作りが行われている。南相馬は見慣れは風景でした。それに比べ、私の故郷南相馬はなにも植えられていない田んぼだけが延々と広がって人もいない。気持ち悪い景色でした。米作りはしたいなあ。でもどうしたらいいのか?そんな時、千葉の農業法人に努めていた息子が急に帰ってきて、「ここで米を作りたい」と言い出しました。私が決めかねていたのに・・・。息子がやるというんじゃしょうがない。踏ん切りをつけて、相馬市に土地を借りることにしました。もちろん断られたけど、粘って交渉して何とか貸してもらうことができました。わずか2aです。しかし、米作りを再開しました。それが2012年のことです。


 相馬でもセシウムが出たら大変だから、一つ一つ鍬を入れて天地返しをしていく。カリウムをまいていく。ふつうは行わない大変な作業です。私自身農薬が苦手だから、これまでも、合鴨農法や米ぬか農法など、健康だと言われる農法は全部やってきました。だから、今回も徹底して安全委はこだわっている。もちろん全袋検査をしています。胸を張って安全だと言えます。

 

スクリーニング検査とは、重さ30キロのコメ袋を一つ一つベルトコンベアに乗せて測定する重労働です。なんと毎年1000万袋も検査しているのです。

 

 読んだ後、子供たちに感想を言ってもらいます。

・被災したのにもう一度農業をやろうという気持ちうがすごい。

・天地返しやカリウムをまいたりと、安全な米を作ろうとしている。

・お父さんは人生をかけた水田を失って、よほどショックだったのだろう。

・稲の生えていないふるさとの水田をみてどう思っただろう。

などなど・・・。

など、の意見がつづく。

三浦さんの大変な状況に共感する声が多く聞かれました。

とくに、お父さんが避難先でなくなったことについて、

「一生をかけてきたものを壊されてショックだったのだろう」

という意見から、被災先でなくなることについても学びました。被災先で亡くなった震災関連死の方は、3500人余りに及ぶそうです。三浦さんのお父さんのようにこれまでの人生で積み重ねてきたものを奪われる衝撃は相当なものです。

 

また、福島のコメは全袋検査していて、安全なのですが、食べるかどうかについては別問題だといいます。子供たちも食べたくないという子供もいます。授業を受けたから食べてもいいけど、その前は食べたくなかったという意見もあります。

 

放射線について、どう考えていくのか。次回は福島の農家の皆さんを悩ます、風評被害について学んでいきます。

 

感想

・三浦さんのお話を読んで、ぼくは三浦さんの努力が心にしみた。三浦さんは農業が好きだからここまで交渉を重ねて2aの貸してもらえたんだと思う。僕が三浦さんと同じ立場だったら。とっくにあきらめていると思う。僕は三浦さんのおコメを食べるべきだと思う。食べないという意見を聞いてみると「福島って聞くと怖い」や「何か入っていそう」とか言っていた。検査で結果が出ているのになんでかな。

 

・三浦さんの話を読んでまず、父のことだ。とても大切にしていた水田を失うという悲しさのあまり薬を拒否したのだ。土地を大切にしていたのだから、もうやりたくなくなった気持ちはわかる。小七位という気持ちが伝わってくる。しかし、私は食べたくないと思った。0ではないので。少しでもあるなら不安だ。食べてあげたい。だけど、自分の体も考えたくてはいけない。だけど、思ってみると三浦さんはどのくらい入っているか。0が多いと思うけど、見逃していそうで怖い。私はそんなに詳しく見ない人だから。詳しく見ればいいけど、やはり見逃しそう。三浦さんのは食べたい。だけど、不安なのである。とても難しい。

 

浜通りの農家は自分の宝物でもある水田を破壊されてそのショックでコメ作りをもうやっていないと思っていた。でも、三浦さんは違っていた。ひどい差別を受けながら、米作りをしたという信念を曲げずにわずか2aだが土地を借りた。そして、死んだお父さんの分まで安全でおいしい米を作ろうと普通なら竹刀作業までしていた。僕の頭の中で、少し福島のイメージがあきらめずに頑張るという風に変わってきた。

 

・私は今日の授業でとても三浦さんはかわいそうだと思った。福島で父の代から一生懸命楽しくお米を作って来たのに、震災で津波が来てm水田をぐちゃぐちゃにされてしまい、それだけでなく、放射能まで水田にまき散らされてしまった。津波だけならまだ同じ南相馬でコメを作れていたのに、放射能南相馬で米を作れなくなってしまった。しかし、それだけでなく、安全なのに、福島のコメは危ないと大げさに避けられてしまう。放射能のせいで水田がだめになり、父もショック死してしまう。福島の人は楽しくお米を作っていただけなのに、こんな大変なことになってしまった。そこ史でも福島のコメを買い食べるようにした方がよい。

 

・三浦さんのお父さんは自分が人生のすべてをかけてきたものを失った。すごく悲しくて、ショックから立ち直れなかったと思う。だから日に日に元気がなくなり、薬も拒否したんだろう。私がもし大切なものをなくしたらどんな気持ちだろう。友達に慰めてもらうだけで立ち直れるかな?いま改めて、大切なものをなくすこわさが分かった。そんな姿を見て、息子さんは「福島でお米を作りたい」といった。私だったらそんなことが言えるだろうか。自分もショックで立ち直れないかもしれない。だから私は三浦さんの家のおコメは安心できるし、体にも良いから食べる。無農薬の檜原雅子さんの紅茶みたいだな。

 

・どうしてみんな「福島」と聞くと嫌な顔をするのだろうか。確かに源波湯事故で放射能がなくなっていないのはわかるけど。でも福島の人たちは負けずに頑張っている。特に農家の方たちは自分の命のような水田を失った。私たちは「かわいそう」と思うだけ。それが農家の人たちにとっては家族がなくなったのと同じくらいショックだったと思う。そんな中でやっと立ち直れて、一生懸命苦労して作ったおコメ。そのおコメはしっかり検査していてOKがされているのに「放射能がついている」といって「いやだ」「かいたくない」「きたない」とみんな買わない。なぜだろう。検査で合格しているのに。私だったら買う。なぜなら、そのおコメの一粒一粒に苦労と努力、そしてたっぷりの愛情がこもっているから。とてもおいしいと思う。

 

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