粕谷昌良の社会科授業日記

筑波大学附属小学校の粕谷昌良が社会科実践を報告します。

121.「畠山さんと森は海の恋人」そして「あの震災」 その⑦  2011年もはためいた大漁旗

前回は、畠山さんが

2011年の23回目の「森は海の恋人」植樹祭は

「とても開けない」

と決断したところまでお話ししました。

しかし、2011年6月5日。ひこばえの森には大量がはためいたのでした。

そして、いつも以上の熱気がそこにはありました。

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重篤さんや信さんはすごく痩せていますね。このときの厳しさを感じさせられます。

しかし、参加されている皆さんの笑顔は、ひときわだなと感じさせられます。

 

さて、重篤さんは開催を断念したにもかかわらず、どうして開かれたのでしょうか?

 

2016年6月5日 
岩手県一関市ひこばえの森
畠山重篤さんインタビュー


○第23回植樹祭を開くことができたのはどうしてですか?
 震災後、道路が復旧すると、支援物資を持ってきてくれる人が次々に現れました。元の美しい舞根を知っている人は言葉を失いました。きっと誰一人養殖場の復活を想像できなかったに違いありません。海を見ていても、魚もカニもフナ虫も、そしてそれらを餌にする鳥も全くいなくなりました。千年に一度の大津波で海に生きる力がなくなってしまったのではないか?そう考えるようになりました。
がれき片づけをしたり、津波の始末をしたりしていた5月、京都大学の田中先生から連絡がりました。
「千年に一度の大津波後の海がどう変遷するのか調査チームを作りました。すぐ行きます」
田中先生は到着すると、海水を調べはしめました。海水を顕微鏡で見て
「畠山さん、大丈夫です。カキのえさになる植物プランクトンが食いきれないくらいいます」
とてもうれしかったですよ。そして
「今回の津波で沿岸部分には被害がありましたが、海の背景にある森は壊れていません。森の養分は海に安定して供給されています。もし、森が壊れていた海の復活も困難でした。『森は海の恋人』は真理ですよ」
 この言葉で勇気づけられました。希望も生まれました。

 しかし、壊滅的な被害を受けて、植樹祭を呼び掛ける雰囲気は全くありませんでした。気仙沼だけで1000人の死者、1000人の行方不明者が出ました。舞根の20件のうち、残ったのは6件だけです。森に掲げてきた海の象徴である大漁旗もありません。 そんなとき、ずっと一緒に活動してきた室根山の人々がやってきて
「今年はすべて私たちが準備をします。畠山さんたちはからだ一つで来てください。」
というんです。それにボランティアの方がたくさん協力してくださるといいます。本当にできるのだろうか。
とにかく、植林祭に行くことにしました。

すると、例年に比べてはるかに狭い植林地でしたが、そこには例年に負けないくらいの多くの人が集まってくれました。人々の思いを感じました。
私はスピーチで言葉がつまりながら
「今年はできないと思っていましたが、皆さんが体一つで来てくださいと言ってくれました。
 しかし今年は、例年植林の後にみんなで食べる舞根のカキを持ってくることができませんでした。
 来年、必ず持ってくることを約束します」
そう述べたのです。

森は海の恋人は、森と海・・・だけでなないのだと思いました

 

室根山の方々が、畠山さんのところに来て開催が実現したのです。

「森は海の恋人」は森と海だけでなく、人もつなげていたのでした。

 

(続く)