粕谷昌良の社会科授業日記

筑波大学附属小学校の粕谷昌良が社会科実践を報告します。

247.取材で出会ったすごい人 5年生編

.①三浦広志さん 「福島のお米は安全ですが食べてくれなくても結構です」

凄く印象に残っている単元です。

1月に1度くらいですが、書店を時間をかけて回ります。

新聞で情報を得ることの次に、書店でのぶらぶら歩きから教材を見つけています。

三浦さんは書店でのぶらぶら歩きで出会いました。

本のタイトルが「福島のお米は安全ですが食べてくれなくても結構です」でしたので、

強く引き付けられました。立ち読みして、これはと思い購入して読みました。

私は読書の速度はとても遅いので、夜中になってようやく読み終わり、

ぜひお会いしたいと翌日電話をしました。

福島の相馬市にある「野馬土」農業団体の代表をしていらっしゃいますので、そこにお電話をして約束をしました。

 

常磐道を北上していきます。次第に線量ポストなどが現れ、福島に近いなという実感がわいてきました。私の緊張感は、そのまま授業でも使うことになります。

 

私自身、震災後に福島に行くことは、初めてではありませんでした。しかし、これまでは数名での訪問でしたので、一人で自動車を運転して向かうという経験は初めてで、そのせいなのか、とても神経が研ぎ澄まされていました。

 

写真を取りながら、ノマドに到着。

挨拶をすると、明るい三浦さんが「あーすみません。忙しくて食事もしていないのですぐに取りますのでしばらく!」と。思わず笑ってしまいました。「どうぞ。コーヒーでも飲んでますから」と言いつつ、併設されたカフェでカレーを食べてしまいました。(いつでも食欲旺盛で困る)

 

三浦さんは、常に明るく、前向きでした。これ以上いけないというところまで連れていってくださいましたし、汚染されてしまったご自分の水田を見せてくださったり。

現在は、ふるさとの南相馬から相馬に移って農地を借りて農業をしていらっしゃいます。そして、ノマドを営むとともに、南相馬のご自分の水田の上に太陽光パネルを設置して、再び農業ができる日に備えています。

「三浦さんは、前向きですね」というと

「被災者らしくなくてごめんなさい」と。あーこのパワーがすごい。

感銘を受けずにはいられませんでした。

 

以下は、インタビュー記事から。これを読むと、原発事故のすさまじさを感じます。

 

○震災当日はどうしていたのですか
 重税反対集会とデモ行進をしていました。デモ行進をしていると大きな揺れが起きました。あまりに大きな揺れだったので、参加者はみんな携帯で家族に電話をかけましたがつながらない。どうしようか考えていたけど、とにかくデモをやってしまおうと・・・・・。
相馬税務署に行くと税務署に人は「本当に来たんですか?中はめちゃくちゃです。」だって。とにかく交渉を終わらせました。このとき地震から1時間くらいたっていたでしょうか。デモに参加したみんなの携帯もつながり始めた。するととんでもない事態だというのです。私の携帯にも電話があって、家族はみんな福浦小学校に避難したと。すぐに仲間の車に乗せてもらい、そこに向かったんですが、小高に近づくと道から水が噴き出ていて、車が流されていく。津波のことは昔から言われてきたけど、目の当たりにした現実のあまりにすごさに驚かされました。車を下してもらい、歩いて山を越え、水を避け、ようやく避難場所の小学校につきました。あたりは真っ暗でした。小学校も停電しているからどこもかしこも真っ暗で誰が誰だか。ようやく家族を見つけてその日は不安の中で車の中で一夜を過ごしました。翌朝家を見に行ったら、家の周りは一面の水浸し。まるで海のようです。農業はもうできないなと直感しました。
 そんな時、すぐとなりの浪江の人が逃げているといううわさが流れてきました。私はその時、津波で家も水田も水浸しになったから、原発のことなんて考えもしなかったのです。原発関連の会社に勤めている同級生が家族に真っ青な顔をして「後は頼むぞ」と言い残して夜中に出ていった。家族にも事情を話さなかったところを見ると相当大変なことが起こっているに違いない。とにかく逃げよう。逃げる準備をしているとき、「まもなくベントします」と放送が流れてきた。12日の朝のことです。市役所の人に、すぐに避難先を変えろと言ったが、避難命令が出ていないから動けないという。仕方がないので家族だけを連れて、25㎞離れた中学校に避難しました。一号機が爆発したのはその日の夕方でした。とんでもないことになった。私は車の中でずっとラジオを聞いていました。情報を集めるしかなかったのです。まずいなと思った。みんながバスに乗せられてここに避難してきたのは夜遅くです。
 私はそのとき娘がいたから、被爆させたくなくて、さらに遠くの相馬まで逃げていきました。相馬につくと、南相馬から避難してきた私たちは避難所から出されて遺体安置所に入れられた。私たち南相馬の人は隔離されたのです。放射線をだれもが恐れていたのです。環境はどんどん悪くなって、水もトイレもないところでぎゅうぎゅうじめで過ごしていました。16日には親戚のいる東京へ避難しようと決めたが、道が壊れていて非難できない。仕方ないので雪の降る中、何とか伊達市まで避難したが、食べるものが何もない。山のフキノトウを食べた。後で知ったが、その日は放射線量が高く、福島ではなんと24マイクロシーベルト(国の基準は0.24マイクロシーベルト)を記録したといいます。18日に高速がつながってトラックが走ったという情報が入りました。すぐに東京へ避難しました。私の父と母と息子は千葉県の多古町で生活することになりました。
 このとき、農業のことなんて正直考えられませんでした。逃げるので精いっぱい。情報を集めることに必死でした。私の家の田んぼはもともと海だった場所を干拓して、農地にしたのです。父の代は洪水が起きるとすぐに水浸しになって。父はそんな中、毎回水を汲んで一生懸命は水田を守ってきました。長く水利組合長をやり、自分のお金を出してまで、水をくみ出す工事をしてきました。父は自分の一生をかけて小高の農地を開墾したのです。だから、父は水浸しになってしまった田んぼを見て、放射能で汚染されたと聞き、千葉に逃げた後も「水を汲んでくれ!」と私に訴えるのでした。でも「放射線が高いから無理なんだよ」というと、元気をなくしていきました。私が福島に様子を見に行くときも父に「行かないか?」と誘うのですが「おれはいい」と静かに言う。自分の人生のすべてをかけてきたものを失ったのです。日に日に元気がなくなり、薬も拒否しました。父は2011年10月7日千葉県でなくなりました。父の遺骨がようやくふるさとに帰ったのは2014年のことです。

○何年後に福島に戻ったのですか
 いやいや2011年の5月30日です。南相馬の仮説住宅に入りました。復興組合を作り、田んぼのがれきひろいを始めました。生活に困るから補助をもらおうと国の役人に交渉したら「福島のような危険なところには行けない」という。かっとなって興奮したが、そうしても仕方がない。とにかく粘り強く交渉を続けました。
 農業をどうするか。南相馬の小高では当分の間、米は作れないと分かっていました。でも原発から少し離れた南相馬から相馬に行くと米作りが行われている。南相馬は見慣れは風景でした。それに比べ、私の故郷南相馬はなにも植えられていない田んぼだけが延々と広がって人もいない。気持ち悪い景色でした。米作りはしたいなあ。でもどうしたらいいのか?そんな時、千葉の農業法人に努めていた息子が急に帰ってきて、「ここで米を作りたい」と言い出しました。農業を再開するか決めかねていたけど、息子がやるというんじゃしょうがない。踏ん切りをつけて、相馬市に土地を借りることにしました。もちろん断られたけど、粘って交渉して何とか貸してもらうことができました。わずか2aです。しかし、米作りを再開しました。それが2012年のことです。
 相馬でもセシウムが出たら大変だから、一つ一つ鍬を入れて天地返しをしていく。カリウムをまいていく。ふつうは行わない大変な作業です。私自身農薬が苦手だから、これまでも、合鴨農法や米ぬか農法など、健康だと言われる農法は全部やってきました。だから、今回も徹底して安全にはこだわっています。もちろん全袋検査をしています。胸を張って安全だと言えます。

○福島の「天のつぶ」は全袋検査をして安全なのに、なかなか売れず、価格も全国平均を大きく下回っています。風評被害が深刻で困りますね。

ふるさとの南相馬の小高から相馬に移って、震災の翌年2012年から米を作り続けています。しかし、買ってくれる人はほとんどいない。困っていますけど、
「福島のコメは安全です。
でも、食べてくれなくていいんですよ」

やけくそになっているわけではありません。安全な米を作ろうと心がけています。全袋検査を必ずしています。私の直売所「野馬土」には測定器があって全袋検査しています。野菜もです。もし、少しでも出ていたら、その測定値を商品に貼っています。確実に安全です。
田んぼは、表面のセシウムを耕して、下の土とかくはんしていきます。地面をひっくり返していくことを天地返しと言います。すると、セシウムの量はぐっと減ります。それを繰り返して、年月が経っていくと、セシウムが表面から20センチとか深いところに沈んでいき、表面は安全になります。大体20年で放射線は影響がなくなります。ですから、地道に天地返しをやっていけば安全な土の戻るということです。成果は確実に表れて、2016年には福島産のコメで、国の基準の100ベクレルどころか、25ベクレル以上の放射能は1つも見つかっていません。1000万袋以上も作っていて0です。安全といってよいのではありませんか?

私自身、原発事故の直後は福島のおコメを食べることができませんでした。2012年に取れたコメの放射線量を測ったら、国の基準100ベクレルはクリアしていましたが、30ベクレルを越えていたので、まだ安全とは思えませんでした。2013年は10ベクレルを下回る数字になってこれなら大丈夫だと思って私も食べました。実は、北海道に続いて放射線量が低いのは福島だったりするのです。福島の倍くらいの線量のところもたくさんありますので、福島のコメだけが危険だという風にはならないでしょう。私の場合、実際に線量を図っていて安全だと言い切れるのですが、「福島のコメだけは買わない」というのが皆さんの考えでしょうね。その気持ちもわかります。事実を知らないということです。結局は自分の目で見ていないのです。
それに、例え「0ですよ。安全ですよ」と保障しても、判断するのは一人一人の人の心です。福島のコメは確実に「安全」なのです。それを信じられるかどうかは「安心」の問題です。「安全」と「安心」は違うのです。

私たちにできることは、公表した結果で安心してもらえるようになるまで、測り続けることです。そして、できる限り少ない放射線量を求め続けて栽培していくことです。
福島のコメを食べようと思ってくれるまで、すごく時間がかかると思います。広島が原爆の被害を受けて、危険な場所と言われてから、現在の平和の都市のようになるくらいの時間が必要なのかもしれません。「安心」や「平和」、人の心に関わるものは時間がかかるものかもしれませんね。

○買ってくれなくて、困ったり、悩んだりしませんか?
私は買ってくれない人が悪いとは思いません。私も放射能が怖くて東京に避難したから、食べない人と気持ちが分かります。売れればラッキーですよ。震災前から私は自分の作るコメのうまさには自信がありました。震災前、私が作る無農薬のこだわりのおコメを買ってくれたお客さんは健康への意識が高い人です。健康への意識が高いからこそ震災後は、逆に買ってくれません。当然でしょう。でも、急ぎません。食べるか食べないかは、お米を食べる方が判断することです。福島の環境が安全だってわかれば、買ってくれるようになります。だから、それまで努力することが大切です。その努力を消費者が見ているんだと思います。福島の悲惨な現状を見て「どうして買わないんだ」とおこってくれる人もいると聞きます。ありがたいことです。でもまだ6年ですよ。まだまだ時間はかかります。どれくらいの時間がかかるかわからないけど、その間のくらしも米作りも楽しくやっていきたいです。「福島いいですよ。最高の環境です」

○そうはいっても売れなければ、日々の生活に困りませんか?
私の住んでいた南相馬の小高で農業ができるようになるのは、地道な作業を何十年とやり続けていくしかありません。それまで、無収入かというとそうではありません。それは、農地に太陽光発電施設を作って発電しているからです
私たち市民が望み、福島県は「再生可能エネルギーさきがけの地 福島」を浪江をはじめ、浜通り地区で実現しようと試みています。市民や地元の企業が中心になって、必ず原発20キロ圏内の浪江も南相馬も復興させようと思います。先祖代々の農地見捨てるのではなく、20年後30年後復活できるように、農地の上に太陽光パネルを設置し太陽光発電で収入を得ています。そして、放射線が弱まったら、再び農業ができるようにするという試みです。今80歳の方が、孫のために田の一部を太陽光発電にしています。そして、除染されて、栄養分のある表土をはがされて、養分0の田に、菜の花を植えました。その年の背丈は10センチほどしかありませんでした。生命力のある菜の花でも土がだめなら育たない。しかし、今年は20センチくらいになったかな。菜の花を田んぼに漉き込むことで栄養が増えていく。それを繰り返し、放射線も少なくしていく。20年後の農業の再開を目指しています。
被災したからと言って、落ち込んでいませんよ。津波原発でやられた私たちのふるさとは、太陽光発電風力発電と綿の栽培をして、トレーラーハウスを置いて、再生エネルギーの中心地にしたい。多くに人が憩える場所にしたい。ちょっと気取った話だけど、26歳の時に「日本の農業は俺が救う」と勝手に決めたんです。だから、必ずしも自分がもうからなくてもよいと考えています。農家がみんな生活できて、日本の農業が健全ならばいいと思う。今は健全ではないけどね。健全にしますよ(笑)

○元気ですね。私の方が勇気づけられます。
ははは。「被災者らしくなくって、すみません。」ってたくさんの方に言うんですよ。みんなずっこけます。

 

この授業については紹介したりない気もします。

 

学習は、風評被害について考えを深めるとともに、

街頭インタビューや福島支援など、活動は広がりました。

今でも、日記などに福島について書いてくる子どもたちがいます。

私にとっても心に刻まれた実践になりました。

 

徒然

・帰宅遅くなってしまった。やらなくちゃいけないことはたくさんなのでがんばろう。

・バナナをよく食べますが、ローソンのバナナが好きです。(どうでもいいこと)

 

⇓相馬の野馬土。その後私は会員になりました。

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⇓三浦さんの水田。今は太陽光パネルが敷きつめられています。復活してほしいです。

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