粕谷昌良の社会科授業日記

筑波大学附属小学校の粕谷昌良が社会科実践を報告します。

249.平和と男女平等と民主主義と・・・。

昨日の帰りに電車で小熊英二さんの「社会を変えるには」を読んでいて、

こんな記述に目がとまり、考えてしまいました。

 

戦後の民主主義についてです。

 

「当時の日本では、必ずしもマルクス主義が一般的で広く支持されていたわけではありませんでした。しかし、戦争は二度とごめんだ、言論制限や男女平等廃止などはまっぴらだ、と思っていた人はたくさんいました。こうした人びとが、保守政党の動向を警戒し、社会党共産党に投票しただけでなく、入党したり指導を受けたりしながら運動を行いました。

 こうした人びとは、広い意味で「民主主義を守る」という意識を持っていました。そこでいう「民主主義」というのは、漠然とした「戦前回帰」への反対であり、「戦争はごめんだ」という感情の表現でもありました。

 ですからその「民主主義」は、議会制民主主義だけのことではありませんでした。そこには、平和志向・男女平等・愛国心教育反対など、「民主主義」とは必ずしも不可分とは言えない事項も含まれていました。」

 

私は民主主義という言葉を雑には捉えてはいないつもりではありますが、左翼とか右翼とか、読売新聞とか朝日新聞とか、そういうラベル付けを会話の中でしたことがあります。

たとえば、政党についても、与党と野党という図式での理解が強くて、政党ごとの主張や政策、主張については理解できているとは、とてもじゃないけど言えません。

 

私のように、こういう大雑把な認識というか概念化が、相手との壁を作ったり、合意を阻んだりしてしまていることが以外と多いのではないか。そう考えてしまいました。(思い込みや印象もそうかもしれない。)

 

これを社会科授業に引き寄せるのは多少強引ではありますが・・・昨日考えたことを少し。

社会科では、概念的知識という言葉がありますが、この概念を教えようとするあまり、事実の積み重ねが不足してしまうと、子どもたちにラベル付けのような思考や判断をさせてしまう恐れがあるのではないかなと感じました。

 

やはり、個別の事実の積み重ねが欠かせないのだなと。それを丁寧に行っていく中で、時間をかけて、概念のようなものが一人一人に形成され、そして、その概念も更新され続けるべきなのだと思いました。時代や個人の学びとともに変化していくほうが良いのではないかと。

 

ですから、「概念的知識の習得」という言葉を安易に使う、というか「獲得した」というのは、非常に危険だなあと電車の中で考えてしまいました。

 

そもそも、具体的な人の生活と切り離された事実は、(「一般的に」と言われるものなのでしょうが、)一般こそが時として、実際の社会から切り離されたものになっていて学ぶべき価値のある社会的な事実からは少し遠い気がします。学習材として適切ではないのではないかと思いを巡らせてしまいました。

 

なんだか何言ってんだかわからないと思います。すみません。独り言です。

 

日経新聞の記事。ふるさと納税に関して、私が考えていたことと(指導案に書いたこと)と重なる点が多く納得。レイトシーキングという言葉は知らなかった。勉強不足。

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日経新聞の記事。